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95,000円

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1 日 葬

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370,000円

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近年の葬儀・直葬・1日葬・一般葬

近年の葬儀(お葬式)方法は、・直葬・1日葬・一般葬の3方法です。
この3方法から1つの方法を選んで行います。
※注)地域・葬儀プランによって、金額が異なることがございます。

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別々依頼

仏式葬儀に於いては「葬儀社依頼」と「お坊さん依頼」は、別々に依頼するほうが葬儀費用的にお得となります。
紹介料が不要な為、葬儀費用がお得

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まず、相談を!!

「慌てて、考えなく頼んでしまった」と、よく聞きます。葬儀となれば慌てず、まず相談です。
「良心のお葬式」は、元警察官・現僧侶が顧問として在籍し、無料で葬儀相談を行っています。

葬儀社依頼は慎重に!!

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葬儀社依頼は、慎重に考えてから依頼!!

「どのようなお葬式にするか」を決めて、その後に葬儀社依頼を!!

元警察官・現僧侶が顧問の「良心のお葬式」にご相談を!!

葬儀費用はわかりにくい?から慎重に!!

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各葬儀社によって、葬儀費用は色々です
私たちには、わかりにくい葬儀費用です

葬儀は、最初にお坊さんに連絡

葬儀は、お坊さんに依頼・お寺に依頼ではない

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お寺との付き合いではなく、お坊さん個人とのお付き合いが良い!!

檀家制度では無い、お付き合い

檀家のお寺は不要

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お坊さんに直接依頼
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葬儀社とお坊さん依頼は、別々に依頼に依頼しましょう
又、お葬式、法事・法要は檀家のお坊さんに依頼するのではなく、良心的なお坊さんに直接依頼しましょう

お葬式のことなら「良心のお葬式」

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「良心のお葬式」は、元警察官・現僧侶を顧問として、葬儀、法事・法要を承っています。

神戸市の近年の葬儀状況

神戸市・東灘区・灘区・長田区・北区・兵庫区・須磨区・垂水区・西区・中央区
葬儀・家族葬・
直葬(釜前葬)の葬儀
1日葬の葬儀
一般葬の葬儀
お坊さんのお経葬儀

神戸市は、9区から成り立っています。
東灘区灘区長田区北区兵庫区須磨区垂水区西区中央区です。
神戸市にあっても近年の葬儀状況神戸市での葬儀関連状況を知ることは大切です。

葬儀・お坊さんの読経葬儀

現代は、仏教離れ・檀家・門徒制度の崩壊によって、お坊さんのお経による、お坊さんの読経葬儀を行われない方もおられます。
お経は、故人をあの世に送り、遺族の心を癒すと言われていますので、お坊さんの読経葬儀でお葬式を執り行いましょう。

葬儀(お葬式)に際して

「葬儀社依頼」と「僧侶読経依頼」は別々に依頼

葬儀は葬儀社に、僧侶読経は僧侶に依頼

葬儀に際し、仏式の葬儀を執り行う場合は、「葬儀依頼」と「僧侶依頼」は別組織への依頼であることを認識して、別々に依頼しなければなりません。
「葬儀は葬儀社に」「僧侶読経は僧侶に」、という依頼を行うことが大原則です。
その依頼方法が、葬儀費用・僧侶読経のお布施額が明瞭となり、葬儀経費の節減につながると思います。

葬儀で「お坊さんが必要」な方

昔から、葬儀には、お坊さんが必要(仏式葬儀)です。
葬儀となった場合、お寺では無くお坊さんに連絡が必要です。
葬儀のサポート「良心のお葬式」に、ご相談・ご連絡下さい。
「良心のお葬式」には、元警察官・現僧侶が顧問として在籍し、無料で相談を受け付けています。

葬儀でお坊さんに連絡

近年は、お寺に行かれる方は殆ど無いと思います。
今は、地域のお寺だからと、「護寺費」を払うのはおかしいかもしれません。

檀家離れ

神戸市にあっても、「檀家離れ」が進み、お寺との付き合いが無い方が多くなっていると思います。
お葬式などの時、どうしよう?とお思いでしょうが、大丈夫です。
「良心のお葬式」に、ご連絡・ご相談下さい。

檀家制度は、江戸時代の悪しき慣習

葬儀など、直接お坊さんに依頼

お寺との付き合いが無くても、葬儀などで困ることはありません。
お葬式イコールお寺では無いのです。
仏式葬儀を行うに際して、今までは「お寺」に依頼していたように見えますが、実質は「お坊さんに依頼」していたのです。
そして、葬儀には元々「お坊さんのお経」は付いておりません
だから、お坊さんに直接依頼すればいいのです。

私達は昔から、お経をあげての葬儀

昔からお葬式は、お坊さんがお経をあげて執り行っています。(お坊さんの読経)
お経とは、お釈迦様の大切な教えがまとめられている文書(聖典)のことです。
「読経」とは、お経を声に出して読むことです。
お経に記されている内容を覚えるため、もしくは人に教えを説くための行為です。
通夜や葬儀のときに亡くなった人の仏前で読経しますが、これは参列している親族や近しい人に説法するという意味もあります。

亡くなった時

枕経(まくらぎょう)
枕経とは、亡くなって何をおいても、直ぐにあげるお経なのです。
勿論、葬儀社に依頼する前にあげるお経です。
枕経は本来、亡くなろうとする者が、死の間際に、お釈迦さまに対して「ありがとうございました。娑婆では大変お世話になりました。」と、あげるお経なのです。
臨終を迎えようとする者があげるお経ですので「臨終勤行」とも言います。
死を迎えようとする者が、中々自分ではお経をあげにくいため、僧侶がその者に代わって、その者の枕元でお経をあげるのです。
故に、枕経と言います。

葬儀は、葬儀相談からが始まり

元警察官・現僧侶が相談対応

私達は一生のうち葬儀(お葬式)を経験することは殆どありません。
身内のものが亡くなった時、「葬儀、どうすれば?」「葬儀社は何処に依頼しようか?」「お坊さんは何処に依頼しようか?」と困ってしまいます。
そして直ぐに、葬儀社に連絡してしまいがちですが、葬儀社依頼前に必ず、事前相談を行うほうが「葬儀費用の減額」など安心して葬儀に取り組むことが出来ると思います。
「良心のお葬式」は、元警察官・現僧侶が無料相談に対応しております。
お葬式のサポート(アドバイス)を行うお葬式・法事市民センター「良心のお葬式」に在籍する顧問の僧侶は、元兵庫県警察官です。

葬儀(お葬式)疑問点

私達はお葬式にあまり関わることがありません。
現代は多種多様な業種が存在しております。
その業種を知るには、外から見ていただけではわかりません。
お葬式も同じでいざ、お葬式となった場合も
「お葬式どうすれば?」
「お葬式費用はどれぐらいするのか?」
「どの葬儀社に依頼すればいいのか?」
「どのような方法ですればいいのか?」
など、お葬式の一つ一つの事について「どうすれば?」と悩んでしまいます。
複雑な現代社会では、「葬儀(お葬式)」について知らなくて当然なのかもしれません。
近年は高齢化社会となって、葬儀業界は一大産業となっております。
葬儀社が乱立し、葬儀に関わる他業種も出現し、葬儀業界は複雑化しております。
又、競争激化から、それぞれの葬儀社が色々な集客方法を打ち出してきております。
葬儀社によって
・様々な葬儀方法
・その葬儀方法の細分化
・様々な葬儀内容
・その葬儀内容の細分化
・葬儀内容のオプション化
・その細分化された内容に見合った葬儀の金額設定
・葬儀に関わる商品の販売
・葬儀後のお手伝い
など、各葬儀社は工夫を凝らし集客を図っております。
葬儀業界が一大産業をなしていることから、葬儀社ではなく、葬儀を斡旋する企業も出てきております。
その企業の中には、他産業から葬儀業界に参入し、その企業のネームバリューで集客し、葬儀業者に斡旋する企業、
パソコン・テレビなどのメデァを利用して集客し、葬儀業者に斡旋する企業などがあります。
私達は葬儀社の実態を知らない中で、葬儀の依頼をしなければならないわけです。
お葬式に直面した場合「色々な、どうすれば?」が、出てくるのは当然です。
・葬儀は何をどうするのか?
・葬儀方法はどうするのか?
・葬儀費用はどれくらいなのか?
・葬儀費用は高いと聞くが安くできないのか?
・葬儀の方法によっては安く出来るのではないか?
・葬儀社はどこに依頼すれば?
葬儀社をどのようにして選べばいいのか?
・お坊さんはどこに依頼すればいいのか?
・良いお坊さんに依頼するにはどうすればいいのか?
・お布施はどれくらいするのか?
葬儀場所はどこですればいいのか?
・宿泊できる葬儀会館で行うのがよいのか?
・葬儀社の会員になっているが安くできるのか?
・あまり悩まず葬儀社任せにすれば、スムーズに葬儀が執り行われるのではないか?
・葬儀内容はどれを選べばいいのか?
・葬儀の物品はどれを選べばいいのか?
・身内のどこまでに訃報を知らせればいいのか?
・お仏壇は無いがどうすれば?
・お墓は無いがどうすれば?
・お葬式後の法事はどうすれば?
・法事のお布施はどのくらいか?
など、色々悩むことが出てくると思います。

葬儀費用を抑え、いいお葬式に!!

葬儀費用は、まだまだ庶民には高額

   →    

お葬式を安くー 葬儀費用を抑える

近年は、葬儀費用が安くなってきたと言われています。
確かに、高度経済成長期頃は、立派な葬儀会館を借りて、祭壇も立派なものにして、お葬式を豪華に、知名人は派手なお葬式にしていたと思います。
この頃から比べれば、確かに葬儀費用は安くなったと思います。
しかし、まだまだ庶民には葬儀費用は高額なものです。
近年は、核家族化・親戚縁者の疎遠化・近隣住民の稀薄化、そして高齢化社会の影響で喪主自体が高齢の為、お付き合いをいている方が少数の為、葬儀自体に参列される方は少人数となっています。
このような状況に於いて、葬儀参列者の人員に比べて、葬儀費用はまだまだ高額のままという感があります。

葬儀をいかに、安く執り行うか

私達は、葬儀費用を出来るだけ安く、そして良いお葬式を、と願うものです。
その為には、下記の事を行っていけばと思います。
1 「安かろう・悪かろう」に注意
誰しも、お金は使いたくないものです。
「出来るだけ安くあげよう」と思うのは誰しも同じです。
葬儀費用も同じで、誰しも安く行いたいと思います。
身内の者が亡くなった場合、「費用を安く」と思って、葬儀費用の安い葬儀社を探すことになります。
この場合、只々、値段が安いということで葬儀社を探せば、失敗しかねないと思います。
例えば、
私たちが物を販売しようとした場合、皆さんに購買力を促すために、皆が飛びついてくるような商品を目玉として宣伝すると思います。
そして、その目玉商品から、さらに高額な商品を買ってもらうように誘導し、販売を高めようとすると思います。
葬儀を依頼するということは、この逆の立場なのです。
売る側は、出来るだけ高く売りたい、購入者は、出来るだけ安く買いたい。
この心理を、まず理解することが大切だと思います。
むやみやたらに、値段の安いものを、と思って購入すれば、粗悪なものを掴まされかねません。
近年の社会経済構造で要注意なのが、仕事を下請けに回し、元受け会社の利益が含まれており、高くなっているということがあります。
例えば、A社が仕事を受け、B社に仕事を丸投げする。
この場合、A社へのリベート(仕事を回した取り分)が、金額に含まれている。
現代は、このような社会経済構造になっていることに注意して、葬儀依頼を行わなければなりません。
2 高齢化社会だから、事前知識の取得を
私達は物を購入する場合、欲しいものほど購入物品について調べます。
店に行ってパンフレットを貰ったり、パソコンなどメデァを使用して詳細に調べると思います。
ですが、お葬式は突然な事案ですから、そうもいかないと思います。
ですから、パンフレットを貰いに行ったり、の余裕はないでしょう。
ゆっくりと調べることも、なかなか出来ないと思います。
ですから、終活、或は遺産相続、又は遺言書作成の時などに葬儀知識を少し入れておけば、いざとなった時には役立つと思います。
近親者に高齢者などの方がおられれば、いざという時に備えて、葬儀に関心を持っておくべきでしょう。
3 身内が亡くなれば、即、葬儀社以外の第3者に無料相談を
身内が亡くなれば、誰しも慌ててしまうものです。
そして、即葬儀社依頼に走ります。
このように慌てないことです。
どのような葬儀を執り行うかと考えた際に、「即、頭に浮かんだ葬儀社」に連絡するのではなく、良心的・中立的な立場の葬儀相談どころに相談することです。

葬儀には、葬儀相談が必要
元警察官現僧侶に、葬儀相談
現僧侶の携帯 09015882757

「良心のお葬式」は、葬儀・法事の市民サポートセンターです。
元警察官で現僧侶を顧問として迎え皆様の相談に応じています。
葬儀(お葬式)は、殆どの方が事前に用意される方は少ないと思います。
身内の方が亡くなった場合、どうしても動揺してしまい、「直ぐ、葬儀社に連絡!!」となってしまうようです。
後々、後悔される方もおられます。
お葬式となった場合、絶対、葬儀社依頼前に無料の事前相談を行って下さい。

大きなお葬式から

小さなお葬式へ
(家族葬)

現代は、高齢化社会のため、葬儀業界は一大産業
現代は、日本人口の約三分の一は65歳以上の人となっている高齢化社会です。
そのため、葬儀業界は一大産業となっております。
只、現代の日本社会は核家族化・近隣間の疎遠化などから一昔のように葬儀(お葬式)にはお金をかけ亡くなってきております。
そのような社会状況から、葬儀業界では色々な葬儀の名称が出現してきております。
例えば、音楽葬、無宗教葬など

葬儀の方針から葬儀を考える!!

神戸での葬儀どうすれば?

パソコン、スマートホンでの葬儀関係には「〇〇葬〇〇万円」という広告が出ています。 
私たちは価格に魅かれがちですが、価格表示はあくまで「参考にさせてもらう」と思う程度でいいと思います。

お葬式どうするの?

「自分宅の葬儀・葬式はどのように!!」を考える

現代は、葬儀に関して家族葬など色々な言葉、そして前述のようにパソコンなどに葬儀価格の違った色々な葬儀方法が出てきております。
葬儀を執り行うにあたって一番大切なことは、まず「自分宅はどのような葬儀を行えばいいのか」を決めることです。
例えば「親戚が少ない」ならば、そのことを目安として「自分宅に在った葬儀方針を立てる」のです。
次にその葬儀方針にそって、どの葬儀方法(葬儀形態)にするかを考えればいいのです。
一番に考えなければならないのは、自分宅の葬儀はどのようなものにするかと予算です 。
例えば「近隣には親戚はいないが遠方には多くいて、遠方ではあるが多数の親戚が葬儀には出席するだろう」などの葬儀目安を考え、その目安から葬儀方針を決める、などです。

葬儀を考える順序

第1 自分宅の葬儀の目安を考え、葬儀方針と予算を決める。
第2 その決まった葬儀方針・予算から葬儀方法(葬儀態様)を決める。
第3 葬儀物品の価格を考えて葬儀物品を吟味し、葬儀物品を決める。
第4 予算内で収まっているか葬儀価格を検討する。
第5 お布施は幾らぐらい包めばよいか検討する。

自分宅の葬儀の目安・葬儀方針

葬儀方針としては下記の6つがある程度当てはまると思いますので、自分宅に在った葬儀はどれかを自分宅の葬儀目安を思い浮かべながら、下記を参考にして葬儀方針を決めて下さい。
① 身内が殆どいない等、簡素化を重点に置いた葬儀
方針に適する目安は
・故人には身内が殆ど無い
・遠方には身内はいるが、葬儀には出席できない
・死亡場所が出稼ぎ的に来たところで、故郷は遠方にある
・故人が生活保護を受けている 等の方です。
② 近くに身内は殆どいないが、遠方には親しい身内がいるためその身内のことも考えた葬儀
方針に適する目安は
・宿泊までを考えてやらなければならない人が多い
・近くの身内よりも遠方に親しい身内が多い 等の方です。
③ 低価格を考えながら、尚且つ見映えを考えての葬儀
方針に適する目安は
・近くに身内が多い方
・親戚縁者は遠方ではあるが、格式などを考える人が多い
・生前、故人の付き合いが多く、式に多くの方の参列が予想される
・遺族の方の付き合いが多く、式に多くの方の参列が予想される 等の方です。
④ 葬儀費用を抑えることを考えながらも、出来るだけ多くの参列を望む葬儀
方針に適する目安は
・故人が多くの参列を望んでいた
・仕事などの人間関係から多くの参列を望む
・旧家で多くの参列が今後、家のためになる場合 等の方です。
⑤ 高級感を考えての葬儀
方針に適する目安は
・社葬を考えている方
・商売をされていてお付き合いの多い方
・旧家と言われ地域で中心的役割を果たしているお家の方
・弔問外交的葬儀を考えておられる方
・故人が地位名誉のあった方
・世間的に有名な方などの方です。
⑥ 既に葬儀社の会員・組合員になっておられる方の葬儀
方針に適する方
この方については、何処かの葬儀社の会員・組合員ですので、殆ど葬儀社を探す必要はないと思います。 
只、注意しなければならないのは
・既にある程度費用を納めていると思い、不必要な葬儀物品の追加、過度な華美さに注意して葬儀費用を抑えることでしょう。
・会員・組合員の方は「会員になっているから・組合員になっているから」と案外葬儀社任せにされがちですが、僧侶の読経(僧侶依頼)つまり、お布施までは葬儀費用に含まれていないのです。
・葬儀依頼とは別に、僧侶依頼をされることが明瞭会計につながると思いますので必ず別依頼を心がけましょう。
このように自分宅の葬儀の目安から葬儀方針を決め、決定した葬儀方針から葬儀方法(葬儀形態)を選び、最終的に価格を決めればいいと思います。

予算内で葬儀の実施

「現代の葬儀方法(形態)」は3方法!!

現代は一昔前と違い、大きく分けて下記の3方法の葬儀形態となっているということです。 
ですから、葬儀(お葬式)を執り行うにあたって大切なことは、どのような方法(形態)で行うかです。
昔ながらの通夜のある一般葬・通夜の無い1日葬・葬儀式の無い直葬(直葬であっても釜前でお経をあげる直葬があり、釜前葬や火葬式という言い方がされています)の3方法があります。
最近では「家族葬」という言葉を聞きますが、これは身内だけの少人数で行うお葬式と思えばよいでしょう。
ですから、通夜のある一般葬の家族葬・通夜の無い1日葬の家族葬と思えばいいのです。
直葬だけは葬儀式がありませんから、直葬での家族葬はありません。
現代の葬儀方法(形態)、3方法とは

〇 直葬 〇 1日葬 〇 一般葬

の3つです。そのうちの

1指1方法(形態) を選べばいいのです。

〇 直葬(釜前葬)とは、
通夜、告別式など行わず、遺体を24時間安置後、火葬場での遺体焼却のみを行う葬儀形態です。
(一昔までは殆ど無かった葬儀方法です。)
釜前葬とは、火葬場に於いて火葬直前に読経を行うことをいいます。
直葬の葬儀費用
数万円~
直葬の場合、火葬までの間の冷蔵・ドライアイス・お飾りなどによって数万円の価格差が出てきます。
〇 1日葬とは、
亡くなられてから通夜は行わず、告別式のみを行う葬儀形態です。
(この1日葬も一昔までは殆どなかった葬儀方法です。)
1日葬の葬儀費用
約30万円~からとなっています。
注意しなければならないのは、葬儀費用の安さだけで葬儀社を選んでしまった場合、収容人員が少ない式場を選び、予想される参列者が収容できなくなり、やむなく式場を変更したところ、宣伝している葬儀費用よりもかなり高くなり、かえって他の葬儀社を選んだ方が良かったという結果になりかねません。
1日葬は安いように感じますが、通夜のある一般葬と比べた場合、祭壇は同じなのですから割高ではあると思います。
〇 一般葬とは、
亡くなられてから通夜を行い、翌日に告別式を行う葬儀形態です。
(従来から行われている葬儀方法です。)
一般葬の中に社葬、家族葬があります。
1日葬の中にも社葬、家族葬があると思えばいいでしょう。
近年、このような葬儀方法が出てきましたのは 「昔のように儀式、宗教に捉われなくなったこと」 「葬儀に費用が掛かりすぎであること」 などが考えられます。
一般葬の葬儀費用
約50万円~数百万円
価格差があるのは葬儀物品1つ1つが低価格の物から高額な物品があるからです。
又、葬儀スタッフの人員数によっても差が出てきます。
例えば、価格差が大きいのは
・祭壇で数万円から数百万円のもの
・棺桶で数万円から百万前後のもの
・会館使用料で数万円から数十万円と掛かるところがあります。
現代は人件費が高くつくといわれています。
又祭壇・棺などに付属品が付いてきてその都度、葬儀料金が増えて行きます。 
そして、飲食は殆どの葬儀社が葬儀費用に含めておりませんが、葬儀では少額と思われるこの飲食代が
例えば、50名出席者の飲食で計算すれば一人5千円で25万円となります。
この葬儀方法(形態)に僧侶の読経が加わって、
★『枕経のある葬儀・無い葬儀』
★『初七日法要が繰上げされた葬儀・初七日法要が告別式に引き続いて行われる式中初七日葬儀』
★『直葬においても火葬場で読経を行う葬儀(釜前葬)・行わない葬儀(直葬)』 があります。
このように複雑化している葬儀ですから、一生のうち喪主等として経験しない葬儀ゆえに葬儀のことが分らなくて当然です。
注意しなければならないことは、亡くなられて出来るだけ早く、葬儀依頼前に枕経(まくらぎょう)をあげることです。
葬儀内容は自由に決めることができる
現代は上記に記載した葬儀内容で葬儀が執り行われていますが、これはあくまで施主側、葬儀社が出来るだけスムーズに葬儀が執り行うことが出来るようにした内容です。
施主或いは喪主として「こういう葬儀にしたい」と葬儀社に依頼すれば、その意に沿った葬儀内容にして頂けると思います。
只、注意しなければならないのは、どの程度の料金になるかということです。
他のことでも同じだと思いますが、「セット」であれば割安感となりますが、セットでない内容となれば料金は高くなると考えた方が無難だと思います。

葬儀方法のメリット・デメリットを考えて!!

近年の葬儀方法は3方法ですが、葬儀に直面した場合、葬儀方法のメリット・デメリットを考えて葬儀を執り行うべきです。

予算からの葬儀物品選び

宣伝に惑わされない
葬儀業界は一大産業と言われていますようにPC、テレビなどメデァで金額を中心に「◯〇葬〇〇万円」と盛んに宣伝されています。
私達はどうしても金額に目がいき金額を中心にして選びがちですが、その選び方はかえって高額な葬儀になりかねません。
予算をオーバーしないように葬儀物品を選ぶ
一般葬の場合、最低2日間の日程になりますので直葬(釜前葬)・1日葬より葬儀費用が高くなるのは当然ですが、自分宅の葬儀の目安、方針を思い描いて慎重に葬儀物品を選んで、或いは省ける物は省いて、費用を抑えるようにすればいいのです。
「追加費用のいらないお葬式」を選ぶのも1つの選び方です。

現代の葬儀と葬儀費用を知る

上記のように葬儀は、葬儀方法(葬儀形態)、葬儀物品の品質の価格差・会場(式場)の選び方によって数十万から数百万の価格差が生じてきます。

故人が亡くなられた場合、誰しも慌ててしまいます。 ですが、私達は身内が死亡した場合「直ぐ、お葬式を」と思ってしまいますが慌てることはありません。葬儀社を選ぶ時間はたっぷりとあるのです。

病院 病院で死亡した場合、看護師さんが「葬儀社を知っておられますか」と親切にお声を掛けてくれますが即、看護師さん看護婦が名前を出した葬儀社に依頼するのではなく、自分たちで色々情報収集して、どうしても良い葬儀社が見つからなければ看護師さんの名前を出した葬儀社にすればいいのです。
そして葬儀社が決まっても僧侶読経は自分たちで決めるべきです。

納得いく葬儀・葬式を!!

1、自分宅に見合った葬儀を
前述の通り、葬儀は時代の流れとともに複雑化してきております。 
ですが、私達は葬儀・葬式の全てを葬儀社任せにするわけにはいきません。
やはり、そのお家にはそのお家の葬儀・葬式での予算があるはずです。
自分宅に見合った葬儀予算で葬儀を行うのが納得いく葬儀・葬式に繋がります。
2、葬儀社主動ではなく自分主動で、葬儀を決定
(1)予算を考え葬儀物品を選ぶ
現代は葬儀業界が一大産業をなすと言われています。
そのため他業種からの葬儀業界への参入が目立ちます。 
それほど企業にとっては利益を生む業界なのです。
ここ数年、葬儀社が大幅に増えたと言われています。
どの業界も同じかもしれませんが、殆どと言っていいほど葬儀社はオプション形式を取っています。
逆に言えばオプションで商品を増やし、良い商品に変換すれば見た目は立派なお葬式に仕上がって行くでしょうし、その分費用も加算してきます。
例えば、葬儀後1週間ごとに葬儀社が佛花を届けるというサービスを聞いたことがありますが、喪主さんは後日「えらく高くついた葬儀になった。後悔してもしきれない」と嘆いておられました。 
これは葬儀社の勧めるままにオプションを選んでしまった結果かもしれません。

「1週間ごとにお花花束を届ける」というサービスから考えますと、私達にすれば「そこまでしなくても」「自分たちですれば、心がこもっているのではないか」と思われるサービスだと思います。
(2)自分主動で葬儀を決定 (葬儀の大原則)
葬儀の大原則は、葬儀社に勧められるままに葬儀を行うのではなく、必ず自分宅に見合った葬儀・葬式を行うことだと思います。
どのような葬儀でも、自分の思うがまま自由自在に出来るのです。
そのためには、葬儀社主動ではなく自分主動の葬儀・葬式を行うことなのです。
このように自分宅の葬儀の目安、葬儀方針を決めることは、現代の葬儀方法である3方法(一般葬・1日葬・直葬)の中から1方法を選ぶ基準にもなりますし、価格差の大きいお金png葬儀業界に於いて良い葬儀社を選ぶ基準になるのです。

葬儀費用にお布施は含まれていない

葬儀と僧侶読経は別々に依頼

特に、注意しなければならないのは、葬儀費用には僧侶読経は付いていません。 
現代は宗教離れ、仏教離れから「僧侶読経はどこに申し込めば」「お布施はいくらすれば」と悩んでしまいます。
そのため、ついつい全てを葬儀社任せにしてしまいます。 
これでは便利な反面、不明瞭な面も出てきかねません。
必ず、葬儀費用・僧侶のお布施は別費用だ、ということを認識しておいて下さい。
葬儀社と僧侶は完全なる別依頼であるにもかかわらず、一緒に依頼するということは料金が不明瞭になるということも併せて認識していたほうがいいと思います。

葬儀は「仏教が起源」

現代の葬儀は、仏教を起源とする

現代に伝わる儀礼や習俗は、仏教を起源としているものが多くあります。
その代表が葬儀・葬式です。
この葬儀・葬式は、死者が戒名(法名)を頂いて、仏(ブッダ)の弟子となり、浄土へと旅立つ儀式です。
死者は、浄土に導かれ49日後に悟りを得て、仏に成る(成仏)と言われています。

現代の習俗や文化は仏教が起源

日本に仏教が伝わったのが、536年とされています。
6世紀末に、聖徳太子が仏教を国作りの基本としたことから、様々な仏教文化が生まれました。

葬儀以外で、仏教が起源のもの

葬儀以外で、仏教を起源としているものに、お彼岸やお盆があります。
このお彼岸やお盆は、仏となった先祖を偲び、同時にこの世にいる自分たちを守ってくれるように祈る行事です。

日本に仏教が伝わって、聖徳太子が仏教を国作りの基本としたことから、様々な仏教文化(儀礼・習俗)が生まれ、その代表格が葬儀なのです。
仏教文化から、葬儀、法要が行われるようになりました。
埋葬などの関係⇒墓地、埋葬等に関する法律の概要

現代の葬儀と火葬の歴史

葬儀は遺族を支援する儀式

葬儀
葬儀(お葬式)は、人を弔うための儀式です。
葬儀は、人の死生観・宗教観が深く関わっていると言われています。
葬儀は、宗教が発生する以前の旧石器時代から行われてきている宗教的行為だと言えると思います。
葬儀は故人のためだけではなく、残された遺族たちが人の死を心で受け止め、そしてその遺族たちの心を支援する儀式であるともいえると思います。
葬儀の歴史
現時点で、歴史上最も古い葬儀跡といわれているのが、イラクの北部シャニダール洞窟の葬儀の痕跡です。
このシャニダール洞窟の中には、約6年前と推定されるネアンデルタール人の骨が見つかっております。
そして、その周辺にはあるはずもない花粉があったということです。
このことは死者を弔うため、花を死者の周りに添えたのではないかと推測されています。
近年の研究において、ネアンデルタール人による埋葬の習慣に関しては疑問もあるようです。
只、仮に埋葬の習慣があったとしても、現生人類のホモ・サピエンスと比較するとかなり単純な埋葬だと言われています。
古代において、ヨーロッパ・日本など世界中で考えられていたのは、霊魂は不死であり、

死亡

死後一定期間、肉体或はその肉体周辺に霊魂はとどまり、その後に冥界或は天界に旅立つと考えられていたと思います。

僧侶中心から葬儀社主導へ

現代は、通夜式があり2日間のお葬式であったのが、宗教離れ・仏教離れから、僧侶中心の葬儀・葬式から葬儀社主動の葬儀・葬式に変わってきました。
この変化に伴って、葬儀方法(形態)が大幅に変わってきました。
近年は「お坊さんのいらない葬儀」と、名うった葬儀社も出現してきております

現代の葬儀は、3形態が基本

現代は高齢化社会を反映して、葬儀業界が一大産業となり、葬儀業界は競争激化となっております。
葬儀社にとっては、如何に集客するかが死活問題になつております。
その為、各葬儀社は色々な葬儀形態を打ち出し集客を図っているのです。
私達はそのことに惑わされることなく、残された遺族として良いお葬式を執り行っていかなければならないと思います。現代の葬儀の執り行い方は3つの方法があります。
   ☆ 一般葬 ☆ 1日葬 ☆ 直葬(釜前葬)
です。
私たちは殆ど葬儀の経験はありません。
ですからお葬式となった場合、どうしてもお葬式イコール葬儀社となってしまいます。
ですが、やはりお葬式を依頼する以上、多少の知識があったほうが、後々後悔しない葬儀につながりますし、安心してお葬式を執り行うことが出来ると思います。
そのためには、上記のお葬式方法があることを念頭に置いて葬儀社に依頼することがよいお葬式に繋がりますし、料金的にも安心して依頼できると思います。
注意が必要なのは、各葬儀社が色々な名称を使っている為、惑わされないことです。

現代は火葬が主流

遺体を火で焼いて処理する葬法を火葬といいます。
日本の火葬率はほぼ100%です。
海外の火葬率はアメリカが46%、イギリスは75%、中国は50%で日本は世界一の火葬国です。
日本の火葬が広がったのが、この百年の間で戦後からのことです。
明治期では火葬率は26、8%、当時はまだまだ土葬が主流でした。
それが、昭和30年には54%、昭和59年には94%になり、平成12年には99%となりました。
日本の葬送に関する基本法の「墓地、埋葬等に関する法律」には、火葬を義務付けるものではなく、土葬が法律によって禁じられているわけでもありません。
法律上は、火葬・土葬、両方の葬法が想定されています。
土葬よりも火葬が広まったのは衛生上の問題、土葬に比べて墓地がコンパクトにでき、火葬を取り入れた仏教の影響などが考えられます。
埋葬などの関係⇒墓地、埋葬等に関する法律の概要

神戸市の火葬の歴史

神戸市は、西区の長谷遺跡や北区の行原遺跡などで中世に火葬を行った施設と考えられる遺構が検出されています。
神戸市街地市営墓地の統合計画によって、春日野と夢野の火葬場と墓地が、鵯越斎場に移転改装されと資料に残っています。
昭和38年から造成が開始され、火葬炉30基を持つ施設として昭和49年4月に開場しました。
春日野からの移転は、昭和38年4月に始まり昭和41年3月に完了、昭和50年3月に火葬場と墓地が廃止されました。
夢野の移転は昭和42年に始まり、47年4月に墓地が廃止されたという資料があり、春日野墓地からの改葬墓のある地点が最初の墓地だということになります。

火葬史(火葬は縄文時代から)

日本では、土葬が縄文時代から行われていたことは、各地で人骨の集積した墓と思われる遺跡が発掘されていることなどから明らかになっています。
日本の火葬は、文武天皇4年の僧侶道昭の葬儀において火葬が最初と記されている文献があるからです。
しかし、火葬が行われたのは、この以前の古墳時代後期の大阪府堺市の陶器千塚古墳群の一つである円墳の横穴式墓室からは焼骨が見つかっています。
さらにづっとさかのぼる縄文時代の遺跡からも焼人骨が見つかっています。

火葬と仏教(ブッタ・火葬)の結びつき

火葬と仏教が結びついたのは、開祖のブッタが火葬されたことによります。
インドでは、火葬、水葬、土葬、風葬など、様々な葬法が行われてきたがブッタが現れる以前から、火葬が重んじられてきました。
その理由としては、インド古来のバラモン教やヒンズー教では、死者の霊が煙とともに天界に昇ることができると信じられていたからという説があります。
ブッタは入滅すると遺言に従って火葬されました。
ブッタの最期を記した「マハーパリニッバーナ経」は、ブッタの教えを忠実・正確に記録し伝承されてきたとされるパーリ仏典に属しますが、
同書によれば、遊行のおりに自身の最期を察知したブッタは、弟子のアーナンダに対して「修行完成者の遺体は、転輪聖王の遺体を処理するような仕方で、処理されるべきである」と告げ、さらに遺体を布や綿で幾重にも包んでから鉄の油槽に入れ薪を集めて火葬するようにと細かく指示しています。
転輪聖王とは、インド神話で正義によって世界を統治する理想的な王のことです。
インドには、転輪聖王のような尊貴な人に対しては、多様な葬法の中でも火葬が行われるべきだという考えがあり、それがブッタに対してもあてはめられたということだと思慮されます。
ブッタが火葬されたことによって、仏教徒の間では火葬が重んじられようになりました。
又、火葬されたブッタの遺骨である仏舎利が崇拝されるようになったことも、火葬の重視につながることとなったのです。
遺体を火葬することは「荼毘に付す」と言われ、荼毘とは、パーリ語で「燃やす」を意味します。

火葬と仏教(僧侶道昭が火葬の幕開け)

文武天皇4年の僧侶道昭の火葬が、日本の葬史の幕開けとなったのは事実だと思います。
この道昭の火葬によって、近代にいたるまで仏教に基ずく葬送として火葬が行われてきました。
大宝3年には、持統天皇が火葬され、続く文武天皇・元明天皇・元正天皇の三大天皇も火葬されています。
これは火葬が国家が認めた葬法になったといえます。
これを機にして8世紀初頭以降、火葬の風習は急激に全国に広まっていったようです。
このような火葬の普及は「続日本記」が高僧の道昭の火葬を「日本最初の火葬」と特記したことからもうかがえるように、火葬が仏教式の葬法として導入されたことが、大きく関係していると考えられています。

古代・火葬は特権階級、庶民は土葬

高僧道昭は中国唐に留学しているので、留学先で僧侶の火葬を目撃した可能性はあると思慮されます。
自らの火葬を遺命したのも、見分が下地になつているものと思われます。
只、持統天皇以下の火葬については、必ずしも仏教葬という認識はなく、中国の薄葬思想の影響ではないかといわれることもあります。
実際、持統天皇の場合、持統天皇は仏教を篤く信奉していたものの、火葬に僧侶がかかわったという形跡は認められないのです。
しかし、奈良時代以降、火葬は日本に着実に受け入れられていきました。
しかしながら、実際に火葬が行われていたのは、天皇や貴族、官吏、僧侶などであって庶民は無縁であったようです。
庶民は簡易な土葬が主流だったと考えられます。
「簡易な土葬」とは、野や河原、崖の横穴などに死者を置き、そのまま自然に任せる葬法のことで、死体は腐乱しつつ犬や鳥に食われたり、土の中で腐敗したり、場所が水辺であれば波・川に流されたりして消失していったのです。
平安京では、桂川や鴨川などの河原が民衆の葬送地となっていました。
承和9年(842年)、朝廷は鴨川などの河原に散乱するどくろを焼却させましたが、その数は5千5百余りだったといいます。
当時の庶民は河原に運ばれ、そのままにされるのがごく普通でした。
身寄りがないよそ者の場合は、河原ではなく市街の路上に遺体が放置されることもあったようです。
京都朱雀大路の交差点の溝や流路から人骨が出土しているからです。
盗人が荒廃した羅城門の楼上で放置された死体を目のあたりにするという「今昔物語集」に収められた説話は、芥川龍之介の短編小説の題材となったことで有名になりましたが、
この説話の最後に「その上の層には死人の骸骨ぞ多かりける。
死にたる人の葬など、えせぬをば、此の門の上にぞ置きける」と書かれており、平安後期にも都に遺体を放置する風習が残っていたことをうかがわせます。
又、平安京では西郊の化野、東山の西麓の鳥辺野が葬地として使われていました。
鳥辺野は、皇族や貴族の葬送にも使われ火葬も行われました。
平安末期には、北郊の蓮台野も葬地として知られるようになっています。
化野・鳥辺野・蓮台野は、いずれも山麓地帯でやがて共同墓地として発展していきました。
只、この当時の土葬は「死体遺棄」という意識のもとで行われていたわけではなかったと考えられています。
絵巻物「餓鬼草子」には、平安期の簡易な土葬の風景をモデルに描かれたようですが、放置された死体に供物が添えられているからです。
つまり「捨てる」側が「弔う」という意識を持っていたということも考えらるのです。

火葬の広がり(仏教の信仰から進む)

簡易な土葬は次第に姿を消してゆくとともに、火葬は仏教との結びつきを強めつつ、上層階級以外にも徐々に広まっていきました。
十世紀の貴賤を問わず念仏を説いた天台僧の空也は、原野に放置された庶民の遺体を集めて火葬し供養を行っています。
鎌倉時代の開祖である一遍の時宗は、京都で火葬場を運営するようになっていました。
又、中世には火葬場での天下も含めて、葬送の実務を僧侶が基本的に請け負うようになったようですが、特に火葬や埋葬、墓所の管理にあたった下級僧侶は「三昧聖」と呼ばれていました。
「三昧」とは、本来は修行した僧侶が達する禅定の境地のことです。
「法華経」に基ずく瞑想法を法華三昧といい、これを修するための道場を法華三昧堂と呼んだのです。
法華三昧は、滅罪の功徳があるとされましたが、それが死霊の鎮めの意味にもとられたのか、平安時代中期以降になると貴族たちは墓所に法華三昧堂を建立するようになり、法華三昧堂の住僧は三昧僧と呼ばれました。
この風習が民間にも次第に広まったため、「三昧」といえば墓所や火葬場の事も指すようになり、墓所に住んで葬送に従事する下級僧侶は三昧聖と呼ばれるようになったと考えられます。
平安中期に比叡山横川で天台僧源信が中心となって結成された極楽往生をめざす念仏団体「二十五三昧会」に由来するという説もあります。
二十五三昧会は、往生のための臨終作法だけでなく、メンバーが死んだ場合の遺体の葬送や墓所についても細かく規定していて、葬送互助のモデルになったとも言われています。
三昧聖には、民間布教や社会事業に尽くした奈良時代の僧・行基や、その弟子たちが既に奈良時代に民衆に火葬を行ったとする説もあります。
こうした仏教者の活躍によって、火葬が火の力と念仏の功徳によって死者の霊を鎮め、穢れた死体を白骨として浄化し聖化する儀礼として広くとらえられるようになりました。
遺体を火によって破壊し、短時間で骨だけにしてしまう火葬は、人間の死を確定してしまうことであり、味方によっては土葬よりも残虐な葬法です。
土葬に慣れ親しんでいた社会で火葬が広く受容されるには、何らかの強力な意義付けが必要であったことでありましょう。
その意義付けを仏教が担ったと思慮されます。

江戸時代には庶民にも火葬が広がる

江戸時代までは土葬が主流をなしていましたが、すでに江戸時代には江戸・大坂などの大都市ではかなり普及していたようです。
大坂の周辺には、火葬場を中心とする墓地が七か所点在していました。
当時の資料によりますと、七か所の一つである道頓堀墓所では、多いときに年間一万体以上、少ない年でも五千体以上の遺体が葬られ、うち一割弱が土葬されたといいます。
ですから、九割は火葬されたということになります。
江戸にも、小塚原に幕府の許可を得て開かれたのに始まって、千駄ケ谷、桐ケ谷、渋谷、炮録新田に火葬場がもうけられ、この五か所は「江戸の五三昧」と呼ばれました。
小塚原の場合は、一町四方ほどの範囲に二十の寺院が並び、火葬寺と呼ばれたことから各宗派の寺院で火葬が行われました。
江戸・大坂に火葬が普及した要因として、人口が密集し土地の狭い都市には、土葬よりも遺体を効率的に処理できる火葬が適していたという点と、仏教葬としての火葬のほうが故人の供養になるという宗教的意義が民衆にも浸透していたと推定できます。
半面、儒教・儒学が隆盛した江戸時代には、火葬の普及を思想・信条的な立場から批判する人々もいました。
儒者の安井真祐は、貞享2年(1685)に「非火葬論」を著し、父母の屍を火葬することはその遺体を粗雑に扱うことであり、孝心に背くことであると論じました。
祖先祭祀を重んじる儒教では、死体といえども親の体を焼くことは不孝と考えられ遺体は、棺のまま土饅頭に収める方式の土葬が理想とされていたのです。
そうした立場から近世の儒者たちは、火葬が孝心を否定する仏教の野蛮な葬法として批判したのです。

明治政府は火葬を野蛮として一時禁止

江戸から明治維新の転換期に火葬は一時禁止されたことがありました。
明治6年(1873)7月、明治政府は突然火葬禁止令を出したのです。
この法は、遺体を焼くことによって生じる煙と臭いが不潔であり、人体に悪影響を及ぼすと考えた警察の統括機関が、司法省に火葬設置場所について意見を求めたことがきっかけとなっていますが、警察の統括機関の伺いに対して政府側は「火葬は釈迦の教法に由来し野蛮で残虐なもの」と断じて早々に火葬禁止を決定したのです。
神仏分離・廃仏希釈をへて、神道国教科政策が強引に進められるなか、仏教弾圧のあおりを受けて、火葬に代わって土葬が国家的に推奨されることとなりました。
しかし、この火葬禁止令はわずか二年足らずの明治8年には解除されています。
土葬は火葬に比べて埋葬地を広くとるため、たちまち墓地不足に陥ったからです。
それと欧米において火葬の普及がはかられていたことも関係しています。
こうして火葬は政府公認になりました。
明治期にはコレラ・チフスなどの伝染病が流行したのですが、伝染病で死亡した遺体は、火葬が推奨され、衛生上の観点からも火葬が有用と評価されるようになったのです。
現在のように公営の火葬場が整備されるまでは、戦後においても地方においては、火葬は墓地の片隅や村はずれで野天で行われることが珍しくなく「野焼き」などと呼ばれました。
この火葬は、筵がかけられた棺や藁や薪で焼くもので、最初に点火するのは喪主や身内の役割で、親族や村人の協力なくしては出来ないものでした。
火葬は、歴史的には仏教との関りで普及してきましたが、もはや現代では遺体の処理方法として認知され特段の宗教性を見出すことは難しくなってきております。

死霊観・祖霊信仰・死者の葬儀に繋がる


日本人の間には、古くから肉体には魂のやどるところであり、人の死は、そこに宿っている魂が抜けだした時の現象であると考え、魂の抜けた肉体は、けがれているものとする考えでした。
死体は、時によると別の魂がその中に入り込んで、再生するとも考えていようです。
そのようなことは、葬儀の方法や墓によって、うかがうことができます。
人が死んだとき、「魂よばい」をするところはきわめて多い。
西日本の各地では、屋根の上へ上がって瓦を一枚めくって、西に向かって「返せ、戻せ」と呼ぶと、魂が戻ってきて生き返ることがあると信じられていました。
もしそれで生き返えらなければ、もう生き返ることはないという伝承があります。
島根県の美保関では、井戸へ行って魂呼びをしたといいます。
これは、魂が地下へ行くものと考えたからで、京都などでは、お盆に井戸の中へシキミの葉を吊り下げておいて、それを仏壇にたてる風習がありますが、これなども、先祖の霊が地下から来ると考えたからにほかなりません。
死体のことを「ナキガラ」というのも、魂のぬけがらの意味だと思います。
このような考え方は、昔から固定していたわけではなく、時の流れなどによって変化し、土地土地によっても差異があります。
日本書紀には、旅する者が路傍で死んだ者を処理していかないために、そこに住んでいる者が困ったという話があります。
それは死の穢れが、そのあたりの住民に災いを与えると考えていたからです。
そうした場合には、連れの者が死者の処分をし、祈祷して災いの及ばないようにしなければならないようですが、連れの者にはその費用すら持ち合わせがなかったようです。
一般民衆の死体は、多くの場合は遺棄せられたようです。
貴族や豪族たちは、その死体を埋めて墳丘を造っていますが、数は限られており、一般民衆には墓はなかったと思われます。
餓鬼草紙によると、身分の高いものは埋められて土が盛られ、他の者の死体は地上にそのまま放置せられているか、箱の中に納められているかされたものと思われます。
いずれにしても、埋められるよりも、そのままに置かれて腐朽するにまかせていたのであろうと考えられます。
死体は埋めないにしても、死体を捨てる場所は決まりがあったようです。
土地土地によって違いがあるようですが、部落の端の岬のような向こう側が多く、けがれたものを、人の眼の届かぬ所に置き、人もまた死体をそこへもって行く以外は、そこへ近づこうとしなかったようです。
生きている者からすれば、死体を捨てる場所は、けがれていて近づいてはならない所であったでしょうが、そこが魂のあの世へ行く入り口であったかもしれないのです。
「一遍聖絵」には、坊さんたちが身体に石を括り付けて、水中に入って死んでいるさまが描かれています。
入水往生というものですが、これなど水の底に極楽があると考えられたからにほかならないからです。
同じころ、はやり始めた渡海入定なども似たようなものです。
これなどは、熊野の浦から小舟に乗って沖へ漕ぎ出て、再び帰ってこないのです。
海のかなたに、魂の故郷である常世が存在すると、考えたからであろうと推測できます。
死体を一定の場所におくことによって、人々はまずその中に宿っている魂が、かなたの幸福な世界へ行くことを祈ったのでしょう。
そして、魂が、なきがらから完全に去ってしまえば、もはやそのなきがらは,けがれているとは考えなかったのでしょう。
「けがれ」というのは、今日の「よごれる」という意味とは違います。
それが身につくことによって、不幸や病をもたらす性質をもったもののことなのです。
それは死者の魂がそうさせるものであるか、あるいは死者以外の魂が取り付いていて、わざわいするものであるか明らかではありません。
人間には、荒魂と和魂(にぎたま)の二つの魂があり、荒魂がわざわいするものであるとか、荒魂は時が過ぎると、和魂(にぎたま)に変わるのだという考え方もあります。
埋葬
日本の古墳の中の埋葬の様子を見ると、死体を傷つけないようにして、埋葬することがうかがえます。
縄文時代には、屈折が多いですが、その姿は、古い時代の夜具も十分でなかった時代の寝姿だったものと思われます。
そのような寝姿が、明治の初め頃までいたるところで行われていました。
昔の布団は小さなもので、手足を伸ばしては、はみ出してしまい、芋虫のようにまるくかがんで寝ていたのです。
山伏たちが峯入修行の時、笈を背負ったまま眠るのも、腰を折り膝を立て、その膝を両手に抱き、膝の上に顔を伏せた姿勢で眠れば、どんなに寒くても風邪をひかぬとも言われていました。
これは、屈折の姿勢の一つです。
足腰を伸ばしたままの葬法は弥生時代から起こり、古墳では殆どこれに変わっています。
身体を丸くして寝るのは、風邪をひかぬためばかりではなく、魂の抜け出ることを恐れたためではないでしょうか。
足腰を伸ばして眠ると、魂が抜けだしやすいと考えたのでしょう。
夢を見るということは、魂の抜けだすことであり、人魂の飛ぶというのは、魂が身体から抜け出してさまよい歩いている姿だとも言われています。
只、貴族たちは夜寝るときは、足腰を伸ばしていたようで、魂の抜けださないように鎮魂の祈祷を行い「たまむすび」ということをしたようです。
元気な時には、魂が身体から抜け出すようなことがあっても又、すぐに戻ってくるものと考えていたようですが、時には、別の魂が入り込むこともあると信じられたのは「憑き物」の俗信が物語っています。
狐がついたり狸がついたり、死霊、怨念、生霊などがつくと考えられたのは、そうしたものがついたとき、本人の魂はどこかにいっており、そのついている物が身体内に留まっている間は、その人自身の魂は、どこかにうろついていると考えられていました。
しかも、色々な魂が人間の身体に入ったり出たりするのは、魂が勝手にそうしているのではなく、その魂の上にもう一つ強い力を持つものがいて、それが色々の魂を支配していると考えられていたからです。
それが仏であったり、鬼であったりしたと思いますが、仏教渡来以前は、神が魂の支配者であると考えていたのです。
魂には上の管理者がいて、それが、人間の身体から魂を切り離したり、取り入れたりすると考えていたのです。
貴族たちはともかく、一般民衆の肉体は早く壊して、その霊を彼方の世界に追いやり、悪霊などのつくことがないようにしたものと考えていたようです。
火葬
死体を焼く風習は奈良時代からおこっており、仏教の伝来によってもたらされた新しい習俗とみられますが、その風習の一般化は著しく遅れ、今も土葬の所があります。
一般的に両墓制というのは、死体を埋めるところと、お参りするために建てる墓が別になっているものですが、一年間は埋めた所(埋め墓)へまいり、それから参り墓の方でまつりをする例が多いのです。
不慮の死をとげた者は、その肉体から魂が抜け切らないで、そのあたりをさまよっていると考えられました。
そして、それが、その付近を通る者につくと、考えられたのです。このような現象を「たたり」と言いました。
まつられることのない霊は、たたることが多かったので、たたられないようにするためには、供養して成仏させる必要があったようです。
このような考え方は、仏教が渡来してからのことであると思われますが、実は古くから日本民族の間にはそういう習俗があったようです。
僧侶が死者のまつりを行うようになってから、そのまつりが、巫女や神人達の手から次第に離れて、僧侶の専業のようになっていったと考えられます。
しかし、死人の霊の口寄せは今もなお巫女が行っています。
僧侶たちの供養によって、死者の霊は彼方の世界へ行ってたたることがなくなるし、火葬を行えば亡骸に別の霊が取り付くこともなくなるわけです。
巫女
巫女は、卜占、神游、寄弦、口寄の業をなしたと言われます。
又、巫女のことをイタコ、イタゴと呼びます。
巫女が大規模に集まることを、恐山地域ではミコマチ、イタコマチと言っています。
巫女が、死者の儀礼と、どうゆうつながりかを見てみますと、死後七日以降に行われる死者供養にかかわっているようです。
巫女の口寄は、社霊を慰める供養儀礼でありました。
あら仏が行きつくところに行けないで、家内近辺を浮遊しているので、それを冥界に送り込むために行うものです。
東北の人たちは「イタコ」について、あれは、めくらの人たちを救うために思い付いたものだと思うが、どうかね」などという場合があります。
恐山は、イタコの集まるところで、イタコになるには少女時代に一定の儀式があり、その修練を経た後、平泉中尊寺などから一種の免許証をもらうのです。
東北の霊山の一つとしてあげられる恐山は、人々に恐ろしい感じを与える霊山で火山と湖がその風土を構成しています。
この恐山が一年中で最も賑わいを示すのは、7月24日の地蔵講です。
この地蔵講の縁日を東北では延命利益を祈願する日としています。
それに至る七日間は、この山に死者が帰って来るので、霊に会うために恐山に行くのです。
恐山には、地獄と呼ばれるところが136もあります。
地獄というのは、仏道に背いて落ち込むところです。
この恐山には、イタコと呼ばれる巫女がいて、お寺の境内などにいます。
イタコたちは、信者と死霊との間の意思の疎通を助ける役目をします。これが口寄です。
口寄には、二種があります。
死口は、死者の霊、特に、先祖の霊を呼び出して、その気持ちを子孫に伝える役をするのです。
祖霊に対する供養を怠っているため、死霊が浮かばれず、そのために家人に病がたえないこと、或いは戦死した息子などと通じてくれます。
生口というのは、遠くに出稼ぎに出たまま蒸発した人々を呼び出すものです。
この恐山を中心とする信仰は、円通寺(1525)大覚院の創設したものでありますから、16世紀以降になって盛んになったと考えられます。
死霊観
日本人の死霊観には、死後の期間を前後に大きく二分し、そのそれぞれに全く異質的な機能が働くものであることが指摘されています。
死の直後から33~50年間は、みずみずしい死者の霊魂が、喪家又は地域社会の周辺に浮遊していて、その影響力を強く及ぼしている。
ことに死後四十九日の忌み明けまでは、特に近接の位置にあってその力が強く働いている。
日本人は、祖霊に対して最も恐るべき存在であるとともに、最も親しむべき尊敬に価するものと考え、このため生者は彼らを定期的に招待すべきとしています。
人が喜ぶときは、神も喜ぶものと考えて、招待の時期としても花咲く春、新酒の出来るころ、収穫期としています。
その際には、供養をすると同時に魔除けの呪術を怠らぬように努める必要がありました。
これは祖先にささげたものが、他の悪霊によって荒らされぬようにと考えたためだといわれていますが、その実は祖霊に対しては、親愛感とともに、一種の恐怖感を持っていたのでしょう。
このように我が国においては、祖霊信仰が固有信仰として知られています。
神奈川県下のある部落の調査によれば、真宗・禅宗を問わず土葬です。
死者が出ると白紙でもって神棚を蔽い、死穢の神に及ぶことを避ける気持ちがあります。
しかし、一般に真宗地帯の門徒の家では、この神隠し作法を行わないところが多いようです。
真宗檀家では死の忌に対し鋭敏に対応する習俗が見当たらない場合が多いからです。
にもかかわらず、この部落の門徒が、一般的な傾向と逆な行き方を取っていることは注意しなければならないでしょう。
それは、菩提寺の親戚縁者に死を告げに行く使い人の作法や、死者の枕頭における供養儀礼、死者を葬送する方式、忌服のしかたなどに現れてきます。
臨終が伝わると、死者にとって血の濃い順に末期の水を飲ませてから北枕に向きを変え、死骸の上に刃物を置きます。
魔性のものが死者に襲い掛かることを防ぐ呪法です。
それと同時に、庭先の隅に三本支柱の棒を立て、それに鍋をかけて枕飯を炊く準備をします。
別に枕団子を作ります。
湯灌や通夜も念ごろに行われています。
この穢をいみ、清浄を尊ぶという考え方に支えられた葬送習俗は、全国の津々浦々の農山漁村に例を見ることができます。
又、古代以来、死に対して喪に服する場合が多いです。
盆と祖霊
盆が、日本において、庶民の生活の中で生かされたのは中世以降からです。
山から祖霊を迎えるのは盆の時ばかりではない。
盆の時には、日夜望見する山より死者の霊を迎えようとするのです。
したがって、盆には仏さまが来ておられるので留守にするわけにはいかない。
仏さまにお茶を差し上げなければならないし、色々接待をしなければならない。
だから家を留守にするわけにはいかないと考えるのです。
こうした考えは、祖霊の加護への感謝と、死者へのまつりを大切にするという意識に支えられているのです。
盂蘭盆会が祖霊祭としての意味を持ち、民間における固有の祖霊信仰と結合をした葬式仏教の形をしめすものといえます。
それは戦国期において行われたと考えられ、庶民社会への定着は徳川中期と考えられます。

神戸市での葬儀

神戸市の葬儀取り組み

神戸市は、垂水区須磨区長田区兵庫区中央区灘区東灘区北区西区の9区から構成されています。
神戸市には規格葬儀があります。
神戸市の葬儀広報⇒神戸市:規格葬儀
火葬場は4か所ありますが、併設された葬儀式場はありません。
神戸市からのお坊さんの紹介はありません。
独自でお坊さんを探さなければなりません。
神戸市の葬儀関係
神戸市内に於いて、葬儀に関する諸事案を処理するにあたって、葬儀関係の葬儀・火葬・墓参りとしての問い合わせは、
神戸市保健福祉局斎園管理課墓園管理センター
〒652-0071神戸市北区山田町下谷上字中一里山12-1
に直接問い合わせる方がスムーズに事が運ぶと思います。
神戸市の規格葬儀の取組
神戸市には、市営葬儀はありませんが、葬儀の取組として、「規格葬儀」を行っています。
規格葬儀とは、 市民の皆様が経済的に安心な料金でご利用いただける葬儀のことで、これは神戸市が直営で行うものではなく、市が指定した永年の経験と独立の店舗を有する葬儀取扱い店の協力によって行い、 対象は神戸市民のみとなっています。
規格葬儀の問い合わせは
〒650-8570神戸市中央区加納町6-5-1
神戸市役所1号館6階
葬儀と火葬
葬儀とは、死者を弔う宗教的な儀式のことをいいますが、法律的に、遺体は24時間火葬に付すことはできません。
どのような葬儀方法を行うにあたっても、24時間いずれかにご遺体を安置しておかなければならないのです。
神戸の斎場(火葬場)は、神戸市内に4か所あります。
斎場の問い合わせは
〒651-1102神戸市北区山田町下谷上字中一里山14-1
火葬場(斎場)の所在地など
(1)鵯越斎場
所在地:神戸市北区山田町下谷上字中一里山14-1
アクセス JR三宮駅から市バスで約20分
(2)甲南斎場
所在地:神戸市東灘区本山町田中字南小路423
アクセス JR住吉駅から車で約10分
(3)西神斎場
所在地:神戸市西区神出町南字美濃谷600
アクセス 市営地下鉄西神駅から車で約15分
(4)有馬斎場
所在地:神戸市北区有馬町字京口山1814
有馬斎場は鵯越斎場で受け付け
アクセス 神戸電鉄有馬温泉駅から車で約7分
神戸市は、墓園の管理なども行っています。
墓園についての問い合わせは
〒652-0071神戸市北区山田町下谷上字中一里山12-1
葬儀となった場合、色々な手続きもあると思いますので、必ず市に問い合わせしましょう。

神戸市規格葬儀に、お布施は含まれていません(別依頼)

神戸市は、市民の福利を願って、規格葬儀を設けています。
しかしながら、この規格葬儀には「お坊さんの読経」は含まれておりません。
規格葬儀の費用は、祭壇、棺桶など葬儀に必要な備品の費用なのです。
ですから、葬儀費用と言えば、お布施と飲食費・バスのチャアター費など実費は含まれていないのです。
このことを熟知しておかなければ、自分が思っていた以上の葬儀の総費用となってしまいます。

生活保護を受けている方などのお葬式(福祉葬)

生活保護を受けている世帯の一員が亡くなり、葬儀費用を出すことが出来ない場合は、自治体(市町村)から葬祭費用の扶助があります。
神戸市に於いても約23万円の扶助があります
(福祉葬という)
この福祉葬に於いても、僧侶のお経は付いておりませんので、僧侶に別個の依頼が必要です。

神戸市の面積・人口など

面積 557.02㎢ 総人口  1,513,611人 人口密度 2,717㎢

神戸の歴史

原始・古代
神戸では市内各所から旧石器時代の石器が出土しています。 しかし、いつごろから人々が住みは じめたのか、またその当時の生活の様子などはよく分かっていません。
原始・古代の遺産として代表的なものには、神戸市立博物館に展示されている国宝の銅鐸・銅戈(どうたく・どうか)と 神戸市垂水区には築造当時の姿に復元された五色塚(ごしきづか)古墳があります。
中世
現在の神戸市域は摂津・播磨の両国にまたがり、当時の首都・京都と瀬戸内海方面を結ぶ海上交 通の要衝でした。
平安末期、そこに着目した平清盛は、神戸の港「大輪田の泊(おおわだのとまり)」を改修し、中国(当時の「宋」)と貿易を行いました。
又、京都から神戸の福原に都が移された こともあります。
さらに神戸は軍事上の拠点ともなり、南北朝時代には楠正成(くすのきまさしげ)が 北朝軍に敗れた「湊川の戦い(1336年)」の地としても知られています。
近世
古代から港町として発展してきた神戸は、天下の台所・大阪を控えて海上交通の要所であると共に、 西国街道沿いの宿駅でもありました。
豊臣秀吉は有馬温泉をこよなく愛し、何度も訪れたと伝えられています。
又、江戸時代には自然条件を活かした酒造りが発展し「灘の生一本」として全国に 知られました。
長い間鎖国政策をとっていた日本ですが、ペリーやハリスの来航により開国を迫られ、日米修好通 商条約(1858年)により1868年に神戸が開港されます。
開港後は、現在の北野地区に外国人居留地が設けられ、衣食住から娯楽や文化などあらゆる面で欧米の生活様式が持ち込まれ、神戸はいち早く文明開化の洗礼を受けて国際貿易都市として発展します。
神戸市の誕生
明治元年(1868年)に兵庫県が設置され、1871年の廃藩置県の後、1889年に人口13万5000 人の神戸市が誕生します。
その後も順調に発展を続け、1931年に「区」制が開始された8年後の1939年には人口100万人を突破しました。
1971年に「第1回神戸まつり」を開催、ポートアイランド神戸ハーバーランド1981年には海上都市・ ポートアイランドが誕生して「ポートピア’81」を開催、1992年の「神戸ハーバーランド」誕生など、 輝かしい歴史を積み重ねます。
兵庫県南部地震
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分、マグニチュード7.2の直下型地震が神戸付近を襲いました。
一瞬にして多くの尊い命を奪い、神戸の街を破壊しました「阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)」。
10年以上の歳月を経た今では見事に復興を成し遂げましたが、神戸では震災の記憶を風化させることなく、震災から得た貴重な教訓を未来に伝えるために、さまざまなモニュメントや施設・催しなどが新たに生まれています。

神戸港の歴史

神戸港は、「務古水門」「大輪田の泊」と呼ばれていた古くから中国大陸や朝鮮半島の港と交流していました。
また、平安時代(794年から1192年)には、「経ヶ島」の築造(1174年)を行うなど、国際貿易の拠点として発展してきました。
室町時代(1336年から1573年)、江戸時代(1603年から1868年)には、「兵庫の津」と呼ばれ、鎖国政策下の江戸時代には、国内交通の要衝として、重要な役割を果たしました。
そして、慶応3年(1868年)の開港後は、人・物・情報が行き交う拠点として、また、国際貿易港として常に最新の設備を整備し、世界を代表する港に発展しました。
平成7年(1995年)1月の阪神・淡路大震災により大きな被害を受けましたが、わずか2年間で施設復旧を完了した。
平成18年には神戸空港が開港し、神戸は海・空・陸の総合交通体系が確立され、人・物・情報の交流拠点づくりを進めています。

神戸・旧居留地の歴史 

1.開国と居留地のはじまり
日本の歴史は、江戸時代の終わりごろ、大きく変わりました。
日本は、1858年に、諸外国と修好通商条約を締結しました。日本は、長年続いた鎖国政策を終わらせました。
そして、日本は、横浜・長崎・函館・新潟・神戸の5つの港を外国に開きました。神戸外国人居留地の歴史は、この時から始まりました。
初代駐日英国公使は、長崎から帰る途中に、視察のために神戸に上陸しました。
彼は、日本の役人に伝えています。この一帯は、外国人居留地として好適である。
しかし、当時の政情は、不安定でした。
神戸は、横浜より約9年遅れ、1868年1月1日に開港することになりました。
神戸外国人居留地は、当時の兵庫の市街地から、3.5km東に離れた所に、建設されました。
その理由は、日本人と外国人との紛争を避けるためでした。そこは、当時、砂地と畑地であった神戸村でした。
2.居留地の建設
神戸港の開港とともに、居留地が建設されました。居留地は、外国人が住み、働く場所です。
しかし、「神戸港の開港」には間に合いませんでした。1868年9月に、一部の土地が競売されました。
ヨーロッパの近代都市計画技術を使い、イギリス人土木技師は、居留地を設計しました。
格子状街路、街路樹、公園、街灯、下水道などが建設されました。
敷地は、整然と、126区画に分割されました。この形状は、現在も変わっていません。
土地の永代借地権を取得した後、外国人たちは、すぐに商館の建設を始めました。最初に竣工したのはの倉庫(10番地)です。
その後、居留地の土地は、1869年、1870年、1873年に次々に競売されました。
126区画の土地は、4回の競売により、すべて売却されました。居留地は、数年をかけて完成しました。
当時の英字新聞は、「東洋における居留地として最も良く設計された美しい街である」と、神戸居留地を高く評価しました。
15番館は、明治初期の外国商館の姿を、現在に残しています。
この建物は、1989年に国の重要文化財に指定され、その後、その建物は、1995年の阪神・淡路大震災で倒壊しました。
現在は復元されています。
3.居留地の運営
当時の神戸外国人居留地は、東西に約500m、南北に約500mの狭い地域でした。東は、現在のフラワーロード、西は鯉川、北は旧西国街道、南は海岸線でした。
「居留地会議」という組織が、居留地を運営しました。
「居留地会議」の常任委員会(行事局)は、各国領事、兵庫県知事、登録外国人から選ばれた3名以内のメンバー、でした。
道路、下水、街灯などを、「居留地会議」は建設し、管理しました。
居留地運営の財源は、土地の借地権の競売から得られた収入と、毎年の土地税金(地租)でした。
その他、「居留地会議」は、警察税を徴収しました。
「居留地会議」は、警察隊を組織しました。
その警察は、居留地内の犯罪を取り締まりました。その警察は、捕らえた犯罪者を、各国の領事に引き渡しました。各国の領事は、犯罪者を裁きました。
当時の神戸外国人居留地の特徴の一つは、この優秀な自治組織でした。
「居留地会議」は、居留地返還までの長い間、自治行政権をうまく使いました。
その一つの理由は、この地域の人口が少なかったことです。また、「居留地会議」は、諸外国人の意見を反映しやすく、利害を調整しました。
4.居留地が返還された・その後の繁栄
1894年の条約(日英通商航海条約)により、居留地返還が決まりました。
1899年7月17日午前10時、居留地返還の式典が実施されました。
諸外国は、居留地の権利と現金を含む財産を、日本政府に返還しました。
神戸市は、東遊園地、墓地、消防用具、ガス燈などを、管理しました。海岸通、播磨町などの新しい地名が、つけられました。
当日の式典の中で、フランス領事は、「居留地の歴史はそのまま神戸の歴史を述べることになるでしょう。神戸の歴史を語らなければ、居留地の歴史も語れません。」と。
返還以後、大正時代と昭和初期、旧居留地には多くの日本人が入り込むようになり、ビジネスの中心地として発展を続けました。
特に、1914年に始まった第一次世界大戦では、世界的な船舶不足を背景に造船ラッシュとなり、港神戸は好景気にわき上がりました。
さらに、1923年の関東大震災で横浜港が壊滅的な打撃を受けました。
横浜の輸出入産品、例えば生糸が、神戸へ運ばれました。神戸は、ますます発展しました。
しかし居留地そのものは、戦争の打撃によって外国商館が衰退しました。
日本の海運会社や商社、銀行などは、旧居留地に新たに進出しました。いわゆる近代洋風建築のオフィスビルが、次々と建てられました。
5.第二次世界大戦と戦後
第二次世界大戦が始まると、神戸在留の外国人たちの活動は大きく後退しました。外国人の多くは、祖国へ追われました。
さらに、1945年6月5日の神戸大空襲は、神戸の港や市街地を壊滅しました。旧居留地の建物は、126区画のうち約70%のが破壊されました。
戦後、戦災復興事業などが開始されましたが、当時の社会情勢の中、旧居留地の復興は、遅れました。
1950年の朝鮮戦争によって日本の経済が活発化し、そして、旧居留地内に、新しいビルが建ちました。
1960年代になり、日本は高度経済成長時代へ突入しました。神戸は、繁栄するようになりました。
しかし、東京への本社機能の流出傾向が強まりました。旧居留地の地位は、相対的に下がりました。ビルの空室が、増えました。
しかし1980年頃から、旧居留地内に残されていた近代洋風建築物と歴史的景観が見直され、これらを活用して、ブティックやカフェ、レストランが進出しました。
}オフィスも、再び増加しはじめました。1983年、旧居留地は、神戸市都市景観条例に基づく「都市景観形成地域」に指定されました。
この頃から、旧居留地は、以前とは異なる趣が見られるようになりました。
6.「国際地区共助会」と「旧居留地連絡協議会」
第二次世界大戦中、旧居留地ビルオーナーは、空襲に備えて、自警団を形成していました。そして、彼らは、戦後、「国際地区共助会」を組織しました。
当初の会員は約30社で、会員の親睦と福祉を目的に活動していました。当時を知る人が言うには、月に1回、地区内のホテルに昼食時に集まって、カレーを、仲間と一緒に食べるのが楽しかった、と。
1983年、当地区は、神戸市都市景観条例の「都市景観形成地域」に指定されました。
この機会に、「国際地区共助会」は、会員の増やし、運営体制を強化し、名称も変更しました。(旧居留地連絡協議会)。
この組織の目的は、異なる業種でも親睦を図り、地区の環境を向上することです。
会員それぞれのビジネス振興を目的にするものではありません。
この組織の活動に、会員のビジネスを持ち込まないことにしています。
会員は、現在に至るまで一貫して、この基本方針を確認しています。
地区内で事業をする法人であることが、会員資格です。
このため、「企業市民」による地域コミュニティが形成されました。これは、日本では稀なことだと思います。
7.阪神・淡路大震災と復興
1995年1月17日未明、阪神・淡路大震災が発生しました。
旧居留地内にあった106のビルは、大小さまざまな被害を受け、うち22棟は解体を余儀なくされました。
この中には、「15番館」も含まれていました。
「15番館」は、居留地時代の唯一の建物であり(1880年ごろ完成)、国指定重要文化財です。
「15番館」は、その後、免震構造で、復元されました。「海岸ビル」(1918年完成)、大興ビル(1919完成)、明海ビル(1921年完成)も解体されました。
この3棟は、20世紀初期の近代洋風建築物でした。
その後、旧居留地では、周辺地域に比べ、再建は早く進みました。
震災から8年が経過した2002年には、9割(20敷地)で再建が完了しました。
さらに、震災とは直接関係のない、新しい大規模なビルやマンションがいくつも建設されました。
その結果、地区内の建物の床面積は、震災前と比較してかなり増加しています。
そして、飲食店やブティックなどの商業施設は、1階に、2階に、増えました。
この地区の本来の機能(ビジネス機能)に加え、商業施設は一層の魅力を付加しています。
また、歩道の拡幅、ベンチの設置など、歩行者を重視する整備が進められました。これらが、街のにぎわいを促進しています。
震災からの復興にあたって、近代洋風建築によって形作られていたかつての街並みの良さを継承することにしました、その後、安全・安心やユニバーサルデザインなどの視点も加えました。
その結果、以前よりも、にぎわい、風格のある街が、形成されています。

「良心のお葬式」活動状況

「良心のお葬式」は、葬儀相談・葬儀の読経受理を活動目的として、神戸をはじめ
・西宮・尼崎・伊丹
を基軸として
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