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葬儀(お葬式)に際して

「葬儀社依頼」と「僧侶読経依頼」は別々に依頼

葬儀は葬儀社に、僧侶読経は僧侶に依頼

葬儀に際し、仏式の葬儀を執り行う場合は、「葬儀依頼」と「僧侶依頼」は別組織への依頼であることを認識して、別々に依頼しなければなりません。
葬儀は葬儀社に、僧侶読経は僧侶に、という依頼を行うことが大原則です。
その依頼方法が、葬儀費用・僧侶読経のお布施額が明瞭となり、葬儀経費の節減につながると思います。

葬儀で「お坊さんが必要」な方

昔から、葬儀には、お坊さんが必要(仏式葬儀)です。
葬儀となった場合、お寺では無くお坊さんに連絡が必要です。
葬儀のサポート「良心のお葬式」にご相談・ご連絡下さい。
「良心のお葬式」には、元警察官・現僧侶が顧問として在籍し、無料で相談を受け付けています。

葬儀でお坊さんに連絡

近年は、お寺に行かれる方は殆ど無いと思います。
今は、地域のお寺だからと、「護寺費」を払うのはおかしいかもしれません。

檀家離れ

加古川市にあっても、「檀家離れ」が進み、お寺との付き合いが無い方が多くなっていると思います。
お葬式などの時、どうしよう?とお思いでしょうが、大丈夫です。
「良心のお葬式」に、ご連絡・ご相談下さい。

檀家制度は、江戸時代の悪しき慣習

葬儀など、直接お坊さんに依頼

お寺との付き合いが無くても、葬儀などで困ることはありません。
お葬式イコールお寺では無いのです。
仏式葬儀を行うに際して、今までは「お寺」に依頼していたように見えますが、実質は「お坊さんに依頼」していたのです。
そして、葬儀には元々「お坊さんのお経」は付いておりません
だから、お坊さんに直接依頼すればいいのです。

私達は昔から、お経をあげての葬儀

昔からお葬式は、お坊さんがお経をあげて執り行っています。(お坊さんの読経)
お経とは、お釈迦様の大切な教えがまとめられている文書(聖典)のことです。
「読経」とは、お経を声に出して読むことです。
お経に記されている内容を覚えるため、もしくは人に教えを説くための行為です。
通夜や葬儀のときに亡くなった人の仏前で読経しますが、これは参列している親族や近しい人に説法するという意味もあります。

亡くなった時

枕経(まくらぎょう)
枕経とは、亡くなって何をおいても、直ぐにあげるお経なのです。
勿論、葬儀社に依頼する前にあげるお経です。
枕経は本来、亡くなろうとする者が、死の間際に、お釈迦さまに対して「ありがとうございました。娑婆では大変お世話になりました。」と、あげるお経なのです。
臨終を迎えようとする者があげるお経ですので「臨終勤行」とも言います。
死を迎えようとする者が、中々自分ではお経をあげにくいため、僧侶がその者に代わって、その者の枕元でお経をあげるのです。
故に、枕経と言います。

葬儀は、葬儀相談からが始まり

元警察官・現僧侶が相談対応

私達は一生のうち葬儀(お葬式)を経験することは殆どありません。
身内のものが亡くなった時、「葬儀、どうすれば?」「葬儀社は何処に依頼しようか?」「お坊さんは何処に依頼しようか?」と困ってしまいます。
そして直ぐに、葬儀社に連絡してしまいがちですが、葬儀社依頼前に必ず、事前相談を行うほうが「葬儀費用の減額」など安心して葬儀に取り組むことが出来ると思います。
「良心のお葬式」は、元警察官・現僧侶が無料相談に対応しております。
お葬式のサポート(アドバイス)を行うお葬式・法事市民センター「良心のお葬式」に在籍する顧問の僧侶は、元兵庫県警察官です。

加古川市での葬儀

加古川市の葬儀の取り組み

加古川市には、市が関係する市民葬・市営葬、規格葬儀は創設されておりません。
又、斎場に併設されたような葬儀式場もありません。
火葬場はありますが、他市のように火葬場に併設された葬儀式場はありません。
只、お墓は個人用墓地と共同墓地があります。
葬儀は殆ど経験することではありませんので、葬儀社依頼前には必ず相談が必要です。
葬儀のサポート「良心のお葬式」にご相談・ご連絡下さい。
加古川市の葬儀広報⇒加古川市おくやみ
斎場
加古川市斎場は、毎年1月1日、2日および毎月2回の設備点検日を休場としています。
出棺時間は、午前10時から午後3時30分までです。
斎場での火葬から収骨までのお待ちいただく時間は、約2時間で、当日収骨になっています。
斎場を使用される場合は、予約を済まされてから、施設使用許可申請の手続きをしてください。
施設使用許可申請の受付は、市役所市民課および各市民センター、東加古川市民総合サービスプラザで行っております。市役所市民課閉庁後または、閉庁日は、市役所警備室でも受付しております。
※葬儀業者を通して葬儀を行う場合は個人での予約は必要ありません。
遺骨を移す時
改葬許可申請
遺骨を移す場合には、市区町村の許可を得る必要があります。
この手続きを改葬許可申請と言います。
改葬許可申請は、現在お墓がある市区町村長に対して提出しなくてはなりません。
初めて納骨する場合は、この手続きは必要ありません。
改葬許可申請の方法
改葬許可申請書を用意します。
改葬許可申請書の内容を記入します。
現在遺骨が納められているお墓の管理者から埋葬の事実について証明してもらいます。
(改葬許可申請書の「埋蔵証明欄」)
加古川市役所市民課で改葬許可申請書とその他必要書類を提出します。
死亡届
届出の方法
死亡届は、市民課または各市民センターで午前8時30分から午後5時15分まで届出を受付けています。
なお、加古川市民センター
(業務時間:午前9時から午後7時まで、
休業日:毎月第2・4日曜、偶数月第2土曜及び年末年始)
東加古川市民総合サービスプラザ
(業務時間:午前10時から午後8時まで、
休業日:毎月第1・3・5日曜、偶数月第2土曜、イオン加古川店休業日及び年末年始)
夜間休日受付窓口
窓口が開いている時間に届出ができない場合は、夜間休日受付窓口を設けています。
夜間休日受付窓口は市役所新庁舎1階の警備室となります。
警備室へは新庁舎南側の夜間・休日出入り口をご利用下さい。
死亡届届け出期間
死亡の事実を知った日から7日以内(国外で死亡があったときは、その事実を知った日から3ヶ月以内)
届出地
死亡者の本籍地、届出人の所在地、又は死亡地の市町村役場
届出人
同居の親族、その他の同居者、家主、地主、家屋若しくは土地管理人、同居の親族以外の親族、後見人、保佐人、補助人任意後見人
届出に必要なもの
届出書(死亡診断書又は検案書添付のもの1通)
届出人の印鑑
加古川市概況
人口:260,952人(男 127,798人 女 133,154人)
世帯数:107,725世帯
(令和2年12月1日現在)
地形
播磨平野の東部に位置しており、市内を一級河川の加古川が還流しています。
加古川の左岸側の市域は全体的に平坦になっています。
加古川の右岸側の市域には平坦な場所も存在するものの、山頂が高砂市との市境である高御位山を始め、加古川市内の大藤山・飯盛山などの標高200 mを超える山も見られます。
尚、加古川の河口近くは高砂市との行政境界であり、加古川の市域は左岸側です。
気候
気候は温暖であり、瀬戸内海式気候です。
市内では比較的雨が少なく、基本的には晴天が多い。
夏には、猛暑日や熱帯夜になる日もあります。
冬には、寒波の影響で氷点下の気温を記録する日もあり、雪が降ることもあるものの、積雪が見られることは稀であり、仮に積雪が生じても一冬に1回か2回程度に過ぎない。

加古川市役所ホームページ

加古川市斎場

加古川市斎場は、毎年1月1日、2日および毎月2回の設備点検日を休場としています。
出棺時間は、午前10時から午後4時までです。
斎場での火葬から収骨までのお待ちいただく時間は、約2時間で、当日収骨になっています。
斎場を使用される場合は、出棺日時を市役所市民課(閉庁後および閉庁日は市役所警備室)で電話予約を済まされてから、施設使用許可申請の手続きをしてください。
施設使用許可申請の受付は、市役所市民課および各市民センター、東加古川市民総合サービスプラザで行っております。市役所市民課閉庁後または、閉庁日は、市役所警備室でも受付しております。

近隣での葬儀読経対応

「良心のお葬式」は、市民のアドバイザーとして葬儀相談、葬儀の読経受理を目的として活動しています。
西宮をはじめ
・尼崎・伊丹・神戸
を基軸とし
・姫路・芦屋・宝塚・三田・川西・摂津・茨木・豊中・吹田
・枚方・高槻・大阪・池田・箕面・寝屋川・堺・京都・東大阪・明石・加古川・たつの・太子町・長岡京市など
の地域に於いて活動しております。

近代の葬儀

江戸後期~幕末の葬儀

江戸時代以前、葬儀には色々な形があったと思いますが、葬式は死者の霊を弔うための形だったと思います。その形が形式化してしまったのは江戸後期江戸時代に檀家制度が確立されてからです。

これは寺院側の檀家支配と寺院運営経費の面で、葬儀・法要の確立化がはかられ、現代に引き継がれて葬儀・葬式の形が形成されたと思われます。

葬儀・葬式は霊を弔う儀式

葬儀・葬式とは、葬儀は死者の霊を弔う儀式であり、葬式は故人がお世話になった人とのお別れの式と考えられます。
現代では、この死者を弔う儀式とお別れの式

お葬式風景

  が区別されること無く執り行われております。

埋葬

一昔前までは、故人を埋葬するにあたって土葬が行われていました。
又、火葬するにあたっても、寺院の近くに火葬場がありその地域、地域で葬儀・葬式が行われていました。
例えば、西宮、尼崎等各地域に見られると思いますが、 墓場に阿弥陀仏

埋葬4

が置かれている建物がありますが、殆どがその場所が火葬場だったと考えられます。

一昔前の葬儀

このように一昔前の葬儀・葬式は、まず人が亡くなると僧侶が枕経をあげ、そして通夜式を行い翌日には告別式が行われていました。
そして、初七日は7日後行われていました。
高度経済成長時期頃から初七日法要

僧侶6png

が火葬後、つまり骨上げ後に行われるようになったと思われます。

現代の葬儀と火葬・火葬に至る歴史

葬儀は遺族を支援する儀式

葬儀
葬儀(お葬式)は、人を弔うための儀式です。葬儀は、人の死生観・宗教観が深く関わっていると言われています。
葬儀は、宗教が発生する以前の旧石器時代から行われてきている宗教的行為だと言えると思います。
葬儀は故人のためだけではなく、残された遺族たちが人の死を心で受け止め、そしてその遺族たちの心を支援する儀式であるともいえると思います。
葬儀の歴史
現時点で、歴史上最も古い葬儀跡といわれているのが、イラクの北部シャニダール洞窟の葬儀の痕跡です。
このシャニダール洞窟の中には、約6年前と推定されるネアンデルタール人の骨が見つかっております。
そして、その周辺にはあるはずもない花粉があったということです。
このことは死者を弔うため、花を死者の周りに添えたのではないかと推測されています。
近年の研究において、ネアンデルタール人による埋葬の習慣に関しては疑問もあるようです。
只、仮に埋葬の習慣があったとしても、現生人類のホモ・サピエンスと比較するとかなり単純な埋葬だと言われています。
古代において、ヨーロッパ・日本など世界中で考えられていたのは、霊魂は不死であり、死後一定期間、肉体或はその肉体周辺に霊魂はとどまり、その後に冥界或は天界に旅立つと考えられていたと思います。

僧侶中心から葬儀社主導へ

現代は、通夜式があり2日間のお葬式であったのが、核家族化、高齢化社会、地域結びつきの希薄化にともなって、僧侶中心の葬儀・葬式から葬儀社主動の葬儀・葬式に変わってきました。
この変化に伴って、葬儀方法(形態)が大幅に変わってきました。

現代の葬儀は3形態

現代は葬儀業界が一大産業となっていることから、葬儀業界では競争激化となっております。葬儀社にとっては、如何に集客するかが死活問題になつております。
その為、各葬儀社は色々な葬儀形態を打ち出し集客を図っているのです。
私達はそのことに惑わされることなく、残された遺族として良いお葬式を執り行っていかなければならないと思います。現代の葬儀の執り行い方は3つの方法があります。
   ☆ 一般葬 ☆ 1日葬 ☆ 直葬(釜前葬)
です。
私たちは殆ど葬儀の経験はありません。ですからお葬式となった場合、どうしてもお葬式イコール葬儀社となってしまいます。
ですが、やはりお葬式を依頼する以上、多少の知識があったほうが、後々後悔しない葬儀につながりますし、安心してお葬式を執り行うことが出来ると思います。
そのためには、上記のお葬式方法があることを念頭に置いて葬儀社に依頼することがよいお葬式に繋がりますし、料金的にも安心して依頼できると思います

現代は火葬が主流

遺体を火で焼いて処理する葬法を火葬といいます。日本の火葬率はほぼ100%です。
海外の火葬率はアメリカが46%、イギリスは75%、中国は50%で日本は世界一の火葬国です。
日本の火葬が広がったのが、この百年の間で戦後からのことです。
明治期では火葬率は26、8%、当時はまだまだ土葬が主流でした。それが、昭和30年には54%、昭和59年には94%になり、平成12年には99%となりました。

日本の葬送に関する基本法の「墓地、埋葬等に関する法律」には、火葬を義務付けるものではなく、土葬が法律によって禁じられているわけでもありません。
法律上は、火葬・土葬、両方の葬法が想定されています。
土葬よりも火葬が広まったのは衛生上の問題、土葬に比べて墓地がコンパクトにでき、火葬を取り入れた仏教の影響などが考えられます。

火葬史

日本では、土葬が縄文時代から行われていたことは、各地で人骨の集積した墓と思われる遺跡が発掘されていることなどから明らかになっています。
日本の火葬は、文武天皇4年の僧侶道昭の葬儀において火葬が最初と記されている文献があるからです。
しかし、火葬が行われたのはこの以前の古墳時代後期の大阪府堺市の陶器千塚古墳群の一つである円墳の横穴式墓室からは、焼骨が見つかっています。さらにづっとさかのぼる縄文時代の遺跡からも焼人骨が見つかっています。

火葬と仏教

文武天皇4年の僧侶道昭の火葬が、日本の葬史の幕開けとなったのは事実だと思います。
大宝3年には、持統天皇が火葬され、続く文武天皇・元明天皇・元正天皇の三大天皇も火葬されています。
これは火葬が国家が認めた葬法になったといえます。
これを機にして8世紀初頭以降、火葬の風習は急激に全国に広まっていったようです。
このような火葬の普及は「続日本記」が高僧の道昭の火葬を「日本最初の火葬」と特記したことからもうかがえるように、火葬が仏教式の葬法として導入されたことが、大きく関係していると考えられています。

火葬と仏教の結びつき

火葬と仏教が結びついたのは、開祖のブッタが火葬されたことによります。
インドでは、火葬、水葬、土葬、風葬など、様々な葬法が行われてきたがブッタが現れる以前から、火葬が重んじられてきました。
その理由としては、インド古来のバラモン教やヒンズー教では、死者の霊が煙とともに天界に昇ることができると信じられていたからという説があります。
ブッタは入滅すると遺言に従って火葬されました。

ブッタの最期を記した「マハーパリニッバーナ経」は、ブッタの教えを忠実・正確に記録し伝承されてきたとされるパーリ仏典に属しますが、同書によれば、
遊行のおりに自身の最期を察知したブッタは、弟子のアーナンダに対して「修行完成者の遺体は、転輪聖王の遺体を処理するような仕方で、処理されるべきである」と告げ、さらに遺体を布や綿で幾重にも包んでから鉄の油槽に入れ薪を集めて火葬するようにと細かく指示しています。
転輪聖王とは、インド神話で正義によって世界を統治する理想的な王のことです。
インドには、転輪聖王のような尊貴な人に対しては、多様な葬法の中でも火葬が行われるべきだという考えがあり、それがブッタに対してもあてはめられたということだと思慮されます。
ブッタが火葬されたことによって、仏教徒の間では火葬が重んじられようになりました。
又、火葬されたブッタの遺骨である仏舎利が崇拝されるようになったことも、火葬の重視につながることとなったのです。
遺体を火葬することは「荼毘に付す」と言われ、荼毘とは、パーリ語で「燃やす」を意味します。

古代・火葬は特権階級、庶民は土葬

高僧道昭は中国唐に留学しているので、留学先で僧侶の火葬を目撃した可能性はあると思慮されます。
自らの火葬を遺命したのも、見分が下地になつているものと思われます。
ただ、持統天皇以下の火葬については、必ずしも仏教葬という認識はなく、中国の薄葬思想の影響ではないかといわれることもあります。
実際、持統天皇の場合、持統天皇は仏教を篤く信奉していたものの、火葬に僧侶がかかわったという形跡は認められないのです。
しかし、奈良時代以降、火葬は日本に着実に受け入れられていきました。
しかしながら、実際に火葬が行われていたのは、天皇や貴族、官吏、僧侶などであって庶民は無縁であったようです。
庶民は簡易な土葬が主流だったと考えられます。
「簡易な土葬」とは、野や河原、崖の横穴などに死者を置き、そのまま自然に任せる葬法のことで、死体は腐乱しつつ犬や鳥に食われたり、土の中で腐敗したり、場所が水辺であれば波・川に流されたりして消失していったのです。
平安京では、桂川や鴨川などの河原が民衆の葬送地となっていました。
承和9年(842年)、朝廷は鴨川などの河原に散乱するどくろを焼却させましたが、その数は5千5百余りだったといいます。
当時の庶民は河原に運ばれ、そのままにされるのがごく普通でした。
身寄りがないよそ者の場合は、河原ではなく市街の路上に遺体が放置されることもあったようです。
京都朱雀大路の交差点の溝や流路から人骨が出土しているからです。
盗人が荒廃した羅城門の楼上で放置された死体を目のあたりにするという「今昔物語集」に収められた説話は、芥川龍之介の短編小説の題材となったことで有名になりましたが、
この説話の最後に「その上の層には死人の骸骨ぞ多かりける。死にたる人の葬など、えせぬをば、此の門の上にぞ置きける」と書かれており、平安後期にも都に遺体を放置する風習が残っていたことをうかがわせます。
又、平安京では西郊の化野、東山の西麓の鳥辺野が葬地として使われていました。鳥辺野は、皇族や貴族の葬送にも使われ火葬も行われました。
平安末期には、北郊の蓮台野も葬地として知られるようになっています。
化野・鳥辺野・蓮台野は、いずれも山麓地帯でやがて共同墓地として発展していきました。
只、この当時の土葬は「死体遺棄」という意識のもとで行われていたわけではなかったと考えられています。
絵巻物「餓鬼草子」には、平安期の簡易な土葬の風景をモデルに描かれたようですが、放置された死体に供物が添えられているからです。
つまり「捨てる」側が「弔う」という意識を持っていたということも考えらるのです。

火葬の広がり

簡易な土葬は次第に姿を消してゆくとともに、火葬は仏教との結びつきを強めつつ、上層階級以外にも徐々に広まっていきました。
十世紀の貴賤を問わず念仏を説いた天台僧の空也は、原野に放置された庶民の遺体を集めて火葬し供養を行っています。
鎌倉時代の開祖である一遍の時宗は、京都で火葬場を運営するようになっていました。
又、中世には火葬場での天下も含めて、葬送の実務を僧侶が基本的に請け負うようになったようですが、特に火葬や埋葬、墓所の管理にあたった下級僧侶は「三昧聖」と呼ばれていました。
「三昧」とは、本来は修行した僧侶が達する禅定の境地のことです。
「法華経」に基ずく瞑想法を法華三昧といい、これを修するための道場を法華三昧堂と呼んだのです。
法華三昧は、滅罪の功徳があるとされましたが、それが死霊の鎮めの意味にもとられたのか、平安時代中期以降になると貴族たちは墓所に法華三昧堂を建立するようになり、法華三昧堂の住僧は三昧僧と呼ばれました。
この風習が民間にも次第に広まったため、「三昧」といえば墓所や火葬場の事も指すようになり、墓所に住んで葬送に従事する下級僧侶は三昧聖と呼ばれるようになったと考えられます。
平安中期に比叡山横川で天台僧源信が中心となって結成された極楽往生をめざす念仏団体「二十五三昧会」に由来するという説もあります。
二十五三昧会は、往生のための臨終作法だけでなく、メンバーが死んだ場合の遺体の葬送や墓所についても細かく規定していて、葬送互助のモデルになったとも言われています。
三昧聖には、民間布教や社会事業に尽くした奈良時代の僧・行基やその弟子たちが既に奈良時代に民衆に火葬を行ったとする説もあります。
こうした仏教者の活躍によって、火葬が火の力と念仏の功徳によって死者の霊を鎮め、穢れた死体を白骨として浄化し聖化する儀礼として広くとらえられるようになりました。
遺体を火によって破壊し、短時間で骨だけにしてしまう火葬は、人間の死を確定してしまうことであり、味方によっては土葬よりも残虐な葬法です。
土葬に慣れ親しんでいた社会で火葬が広く受容されるには、何らかの強力な意義付けが必要であったことでありましょう。
その意義付けを仏教が担ったと思慮されます。

江戸時代には庶民にも火葬が広がる

江戸時代までは土葬が主流をなしていましたが、すでに江戸時代には江戸・大坂などの大都市ではかなり普及していたようです。
大坂の周辺には、火葬場を中心とする墓地が七か所点在していました。
当時の資料によりますと、七か所の一つである道頓堀墓所では、多いときに年間一万体以上、少ない年でも五千体以上の遺体が葬られ、うち一割弱が土葬されたといいます。
ですから、九割は火葬されたということになります。
江戸にも、小塚原に幕府の許可を得て開かれたのに始まって、千駄ケ谷、桐ケ谷、渋谷、炮録新田に火葬場がもうけられ、この五か所は「江戸の五三昧」と呼ばれました。
小塚原の場合は、一町四方ほどの範囲に二十の寺院が並び、火葬寺と呼ばれたことから各宗派の寺院で火葬が行われました。
江戸・大坂に火葬が普及した要因として、人口が密集し土地の狭い都市には、土葬よりも遺体を効率的に処理できる火葬が適していたという点と、仏教葬としての火葬のほうが故人の供養になるという宗教的意義が民衆にも浸透していたと推定できます。
半面、儒教・儒学が隆盛した江戸時代には、火葬の普及を思想・信条的な立場から批判する人々もいました。
儒者の安井真祐は、貞享2年(1685)に「非火葬論」を著し、父母の屍を火葬することはその遺体を粗雑に扱うことであり、孝心に背くことであると論じました。
祖先祭祀を重んじる儒教では、死体といえども親の体を焼くことは不孝と考えられ遺体は、棺のまま土饅頭に収める方式の土葬が理想とされていたのです。
そうした立場から近世の儒者たちは、火葬が孝心を否定する仏教の野蛮な葬法として批判したのです。

明治政府は火葬を野蛮として一時禁止

江戸から明治維新の転換期に火葬は一時禁止されたことがありました。
明治6年(1873)7月、明治政府は突然火葬禁止令を出したのです。
この法は、遺体を焼くことによって生じる煙と臭いが不潔であり、人体に悪影響を及ぼすと考えた警察の統括機関が、司法省に火葬設置場所について意見を求めたことがきっかけとなっていますが、警察の統括機関の伺いに対して政府側は「火葬は釈迦の教法に由来し野蛮で残虐なもの」と断じて早々に火葬禁止を決定したのです。
神仏分離・廃仏希釈をへて、神道国教科政策が強引に進められるなか、仏教弾圧のあおりを受けて、火葬に代わって土葬が国家的に推奨されることとなりました。
しかし、この火葬禁止令はわずか二年足らずの明治8年には解除されています。
土葬は火葬に比べて埋葬地を広くとるため、たちまち墓地不足に陥ったからです。
それと欧米において火葬の普及がはかられていたことも関係しています。こうして火葬は政府公認になりました。
明治期にはコレラ・チフスなどの伝染病が流行したのですが、伝染病で死亡した遺体は、火葬が推奨され、衛生上の観点からも火葬が有用と評価されるようになったのです。
現在のように公営の火葬場が整備されるまでは、戦後においても地方においては、火葬は墓地の片隅や村はずれで野天で行われることが珍しくなく「野焼き」などと呼ばれました。
この火葬は、筵がかけられた棺や藁や薪で焼くもので、最初に点火するのは喪主や身内の役割で、親族や村人の協力なくしては出来ないものでした。
火葬は、歴史的には仏教との関りで普及してきましたが、もはや現代では遺体の処理方法として認知され特段の宗教性を見出すことは難しくなってきております。