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「尼崎市で小規模葬儀」

お布施が、格安(2万5千円~)の
良心のお葬式」へ

✆ 0120-44-24-24 072-772-7422
顧問の元警察官・現僧侶が読経対応
携帯 090-1588-2757(24時間対応)

葬儀・お坊さんの読経葬儀

現代は、仏教離れ・檀家・門徒制度の崩壊によって、お坊さんのお経による、お坊さんの読経葬儀を行われない方もおられます。
お経は、故人をあの世に送り、遺族の心を癒すと言われていますので、お坊さんの読経葬儀でお葬式を執り行いましょう。

尼崎市で小規模葬儀

現代のお葬式は、核家族化・親戚縁者の疎遠化・地域住民との希薄化そして、コロナ感染症の影響によって「小規模化」しております。
尼崎市にあっても、小規模葬儀が大半となってきております。
尼崎市の葬儀広報⇒おくやみ|尼崎市公式ホームページ

お葬式・小さく(小規模葬儀)

葬儀・お葬式とは?
葬儀・お葬式とは、遺族、友人・知人が故人を偲び、あの世に送るための儀式です。
葬儀は、葬儀・告別式などと言われていますが、本来は葬儀式と告別式は別のものでした。
現代は、葬儀式と告別式の区別が亡くなり、火葬も近親者のみの少人数で行うようになってきました。

現代のお葬式は、時代の流れに合わせて小さく!!

お葬式は小さく

お葬式は小さく(小規模葬儀)
近年、核家族化・親戚縁者の稀薄化・近隣者との疎遠化などから、お葬式は出来るだけお金をかけない、葬儀費用を抑えた小さな少人数のお葬式となっています。
家族葬というお葬式形態です。
「お葬式は小さく」こじんまりとまとまった心に残るお葬式を行えばいいと思います。

お金をかけない

お金をかけないお葬式
近年、お葬式にはお金をかけない少予算でのお葬式が言われています。
近年は、核家族化やお金の使い道が一昔前と違い、お葬式にはお金をかけなくなっています。
お葬式はご遺族の、「故人を送ってあげる」という気持ちが一番大切です。

尼崎の市勢・状況

尼崎の位置と面積

尼崎市の位置を示す図

阪神広域圏に属する尼崎市は、大阪平野の西部にあって、兵庫県の東南部に位置し、総面積50.71平方キロメートルの都市です。市域の東は神崎川、左門殿川を隔てて大阪市と、猪名川を挟んで豊中市と接し、北は伊丹市と、西は武庫川を境に西宮市と接し、南は大阪湾に面しています。
地勢
尼崎市は、東を流れる猪名川・神崎川と、西を流れる武庫川に区切られ、大阪湾の沿岸潮流や河川が運ぶ土砂が堆積してできた平野部に立地しています。堆積に加えて気候変動により海水面が下降する海退現象の影響により、この数千年の間に形成された比較的新しい土地といえます。
市域を土地のでき方によって区分すると、東側の猪名川の沖積平野、西側の武庫川の沖積平野、北部の伊丹大地南縁部、その南に広がる中央部の海岸平野部に分かれます。
近代以降の地盤沈下の影響もあって、市域の約3分の1は海水面以下の低い土地です。北に行くに従って標高が高くなり、伊丹市との境界線付近は標高5~10メートル前後の高さとなっています。

「あまがさき」という地名の由来
「あまがさき」(尼崎)という地名が歴史上はじめて登場するのは、平安時代の末から鎌倉時代初め頃です。
この頃に書かれた「大物(だいもつ)浜・長洲(ながす)浜請文」(真福寺文書)という史料に、「尼崎浜は大物の南、河を隔て、久安以後の新出地なり」と記されていて、尼崎が久安年間(1145~51)ころに、新たに形成された土地の名前であることがわかります。
現在の阪神尼崎駅から大物駅にかけての南側あたりが、もともとの尼崎という地名の場所にあたります。 
さきの古文書に出てくる長洲浜というのは、当時の猪名(いな)川・神崎川の河口に近い場所で、奈良の東大寺や京の鴨社の荘園がありました。
大物や尼崎は、その長洲浜のさらに南に形成された砂州が陸地化し、港町となっていった場所です。
尼崎は、鎌倉・室町期の記録には「海士崎」「海人崎」「海崎」とも書かれており、いずれも読みは「あまがさき」と考えられます。
「あま」という言葉は、今日では海に潜って貝などを採る女性を指しますが、古代・中世においてはより広く、漁民・海民を意味していました。
また、「さき(崎)」は岬にも通ずる言葉で、今日でも海に突き出た場所を指す際に使われます。
つまり、漁民・海民が住む海に突き出た土地というのが、地名の由来と考えられます。
この港町尼崎が、近世には尼崎城の城下町となりました。
近代に入ると、旧城下町を中心とした行政区域としての尼崎町が成立し、何度か周囲の村を合併して、現在の尼崎市となっていきました。
豊かな歴史をもつ尼崎
紀元前から進んだ文化を持った人々が暮らし、古代から中世にかけては海陸交通の要衝として、近世には城下町として発展しました。近代に入ると日本有数の工業都市として栄えるなど、尼崎は歴史の中で、常に重要な位置を占めてきました。
尼崎は、弥生時代から先進的な地域
弥生時代の大集落跡「田能遺跡(国指定史跡)」からは、人骨とともに木棺墓が発見されたほか、銅剣鋳型など貴重な遺物をはじめとする大量の土器や石器が出土し、当時の先進的な暮らしぶりを知る貴重な手がかりが得られました。
海岸線沿いの土地は、奈良時代以降荘園として開発され、流通の場として繁栄しています。
荘園の領主は京都や奈良の貴族や寺社が多く、尼崎は当時から都とのつながりが深い地域でした。
西国から都への中継地点・大物
源氏と平氏が激しく争った平安時代の終わりごろ、神崎川河口に近い大物は人や物資が行き交う港として栄えていました。
兄・源頼朝と対立した源義経や弁慶たちが、九州へ逃れようと嵐のなか大物から船出して遭難した逸話は、能「船弁慶」や浄瑠璃・歌舞伎「義経千本桜」に取り入れられ人気を集めました。
秀吉が尼崎で危機一髪!ゆかりの寺もあります
備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉は、本能寺の変を知って京都に向けて大移動を開始。
後に「中国大返し」と呼ばれるこの強行軍では、尼崎にも足を踏み入れました。
伝説では、武庫川の草むらからキジが飛び立つのを見た秀吉は、待ち構える明智軍勢に気づいて進路を変更したとされ、この地は「雉ガ坂(きじがさか)」と呼ばれています。
また、秀吉が逃げ込んだとされる廣徳寺には、秀吉が僧に変装して難を逃れた逸話「味噌すり坊主」にまつわる品々のほか、朱印状、寺領目録などが残されています。
大坂の西を守る要の「尼崎城」築城
江戸時代初期、譜代大名の戸田氏鉄(とだうじかね)を藩主に尼崎城が築城されました。
今の尼崎市や伊丹市から神戸市の須磨まで、海岸部を中心に広い領地を持ち、阪神間唯一の城下町が形成されました。
築城に伴い城の西側につくられた寺町には11の寺院が残されていて、当時の佇まいを現在に伝えています。
「尼崎市」の誕生とまちの発展
明治維新によって尼崎藩はなくなり、尼崎城も廃城となりましたが、産業・交通の発達など、徐々に近代化・都市化が進み、大正5年には尼崎市が誕生しました。
戦後は商店街の再建から活気を取り戻し、平成28年には市制100周年を迎え、「ひと咲き まち咲き あまがさき」を目指した新たな一歩を踏み出しました。
145年の時を経て、尼崎城再建
尼崎で創業した家電量販店の創業者の寄贈により、尼崎城が廃城から145年振りに再建され、平成31年3月29日にオープンしました。
江戸時代の城下町にタイムスリップできる「大迫力VRシアター」など、尼崎の歴史や文化を発見・体験できる魅力が満載。「来て・見て・触って・体験してもらう」ことで、いつまでも愛されるみんなの尼崎城を目指します。
歴史遺産を後世に伝える歴史博物館
尼崎がこれまでに収集した歴史・考古などの文化財を広く公開する博物館が令和2年10月10日にオープンしました。地域史料を見ることもできます。
旧尼崎高等女学校の校舎をリニューアルした、尼崎の歴史文化の拠点となる博物館です。
昭和の面影を伝える建物ですが、内装は全面改修。常設展示のほか、企画展も開催します。
尼崎の豊かな歴史や文化を理解し未来を展望する学びの場として、歴史遺産を後世に伝える役割を持つ博物館です。

尼崎市には規格葬儀あり

尼崎市では、簡素で厳粛な葬儀の実施を目的に規格葬儀を設けています。
只、市運営の葬儀式場はありません。

近年の葬儀は様々な形態あり

近年、葬儀社は様々な名称で葬儀を打ち出しています。
尼崎市で葬儀を執り行う場合、近年の葬儀状況を知ることは大切です。(尼崎市の近年の葬儀状況

葬儀は、葬儀相談からが始まり

葬儀社依頼前に、まず無料相談を!!

  • 「良心のお葬式」は、元警察官・現僧侶が顧問で無料相談に対応しています
  • 葬儀となった場合、葬儀社依頼前に、必ず中立的立場の所に相談が必要!!
    近年の葬儀は、各葬儀社などが色々な名称の葬儀を執り行っております

元警察官で現僧侶の推奨葬儀プラン
(ご家庭にあったプランを選択頂けます。)

直葬(釜前)

95,000円
1 日 葬

285,000円
一 般 葬

423,000円
※金額・祭壇は参考事例

注)葬儀の注意事項
◎ 直葬(釜前葬)とは、直葬は24時間遺体を安置した後、通夜・告別式を行わず火葬に付すお葬式です。
火葬場の炉の前でお経をあげるお葬式のことを言います。
◎ 1日葬とは、通夜式が無く、告別式のみの1日でのお葬式です。
◎ 一般葬とは、通常行われている通夜・告別式があるお葬式です。

葬儀・葬式の意義

葬儀・葬式には、5つの意味があると言われています。
①死を受け止める(儀式としては通夜式)
②死者を送る(葬儀式)
③死者と関係のあった人がお別れを行う(告別式)
④死者を葬る(埋葬)
⑤葬儀後、悲しみを乗り越え、死者の供養(法要)
の意味があります。

葬儀

葬儀とは、死者を弔う宗教的な儀式のことをいいます。
法律的に遺体は24時間火葬に付すことはできません。
どのような葬儀方法を行うにあたっても24時間どこかにご遺体を安置しておかなければならないのです。
一昔前は、葬儀(式)と告別式が別々の形で行われていましたが、近年では、葬儀(式)と告別式が同時進行つまり葬儀(式)と告別式は一緒のものとして行われています。
尼崎市は、以前市営葬儀がありましたが、規格葬儀に移行しております。
市の規格葬儀を考えながら自らが葬儀社など探すのもいいと思います。

家族葬

家族葬とは、少人数でのお葬式のことです。
最近、皆さまからよく聞きますのは「身内が亡くなったら、家族葬でお葬式をする」ということです。
家族葬は、「簡単」「料金的に安い」「多くの参列者を呼ばなくて済む」「気分的に楽な気がする」と思われておられます。
ある程度は思われていることがあっていると思います。
「家族葬」≠「安い」
只、注意が必要なのは「料金的に安い」と思われていることです。そうではありません。
家族葬といっても、金額的には安いとばかりは言えないと思います。
確かに家族葬は、少人数でのお葬式のことですが、家族葬は「家族葬だから、こうなのだ」と明確な定義はありません。
少人数でのお葬式ですから、料理、香典返しなどにあまりお金を使わなくてすみますので安くはなるとは思います。
ですが、祭壇、式場の借り上げなどピンキリの値段なのです。
そのことを考えれば、一概に家族葬は安いとは言えないのです。
「良心的・信頼」=葬儀社選び
葬儀費用を抑えた葬儀をするのであれば、葬儀社選びが重要なポイントになると思います。
良心的で信頼できる葬儀社であれば、 どのようなお葬式でも予算に合わせて葬儀を執り行うことが出来ると思います。
そして、お葬式の流れは、家族葬であれ、今まで行われてきたお葬式との流れには殆ど変わりはありません。
ですから、参列者においても故人を偲び悲しんでおられる知人・友人に参列して頂ければいいのです。
家族葬のいわれ
家族葬という葬儀が近年言われだしましたのは、核家族化がすすみ、高度経済成長によって今まで近くにいた親戚縁者が、仕事の関係からそれぞれ全国に散らばり親戚との付き合いも希薄となったこと。
又、近隣とのお付き合いも少なく疎遠化して、お葬式自体への参列者が減ってきたことが最大の原因だと思います。
家族葬と普通の葬儀の違い
皆さんは、「家族葬と普通の葬儀の違いは?」と疑問に思われるでしょう。
1日葬にも普通の葬儀にも家族葬はあるのです。
つまり、家族葬は、少人数での葬儀のことですから、少人数であれば「家族葬」なのです。
家族葬という明確な定義はないのですから。
1日葬でも少人数でお葬式を行えば「家族葬」なのです。
普通の葬儀でも小人数で行えば「家族葬」なのです。
しかしながら、いくら明確な定義がないといっても、葬儀を依頼するものにとっては「どういうこと?」と分からなくなってしまいます。
違いをはっきりといえば、少人数で行う葬儀ですから、例えば、返礼品であれば小人数分の返礼品を用意すればよいことなので、大人数と比べ費用が少なくてすみます。
通夜振る舞いなど飲食費も人数分を用意すればいいのですから経費としては安くつくと思います。
只、注意しなければならないのは「家族葬は葬儀費用が安くつく」ではないことです。
このことを勘違いして「家族葬は安い」と思い込んでしまって、後々後悔するお葬式になりかねません。
最も費用の多くを占めるのが、葬儀一式費用です。
この葬儀費用まで、「安くつく」と勘違いしてはいけません。
祭壇は特に値段差が大きく、高額な祭壇を頼めば「普通の葬儀よりも高くついた」となりかねません。
家族葬は「葬儀費用が安くつく」ではなく「少人数での葬儀」と思って依頼しなければなりません。

葬儀費用とお布施は別

葬儀費用には、僧侶読経(お経)は含まれていません。  お坊さんお経は別依頼となります。 
現代は宗教離れ・仏教離れという時代で一昔のように、おじいさん・おばあさんに連れられてお寺にはいくことがありませんので、いざ葬儀となった場合、どの僧侶に読経(お経)を依頼してよいか困ってしまいます。
現在、「お寺離れ・門徒離れ」が進んでおります。
勿論、「お寺の旦那寺」(人々がお寺に所属)としての機能は、江戸幕府が作ったものですから、当然現在は「お寺」を「旦那寺」とすることはありませんので、葬儀・法事の際に「お寺に言わなくては」ということはありません。
逆に、お寺というよりも、親身になって寄り添ってくれる僧侶に依頼するのが一番いいのです。

又、 お布施袋お布施は不明瞭という時代ですので、このような時は無料相談を利用したり、或いはメデァの発達した時代ですからPCなどで探されればいいと思います。

尼崎市役所の葬儀の取組み

尼崎市の人口(令和3年4月1日現在)
人口:450,233人 世帯数:221,562世帯
葬儀建物
平成26年7月に尼崎市営葬儀から尼崎市規格葬儀に移行しております。
規格葬儀とは、簡素で厳粛な葬儀の実施を目的に市の定める規格に沿って市が指定した事業者が葬儀を執り行うことを目的としております。

 尼崎市弥生ヶ丘斎場
  
所在地:尼崎市弥生ヶ丘町1番1号

尼崎市立弥生ヶ丘斎場は、老朽化等によって平成16年4月に建て替えられました。
建て替えに当たって、ダイオキシン等に対する環境対策、公害防止装置を取り入れているようです。
告別室と収骨室を設置して、故人とのお別れを厳粛な中で行われるようにしております。
さらに、従来の火葬場のイメージの一新のため、自然採光を取り入れた明るい建物にして、人生の終焉の場にふさわしい荘厳さを備えた施設としています。
尼崎の葬儀⇒規格葬儀|尼崎市公式ホームページ
尼崎市規格葬儀
尼崎市には、市営葬儀がありましたが廃止され、現在は新たに規格葬儀が作られています。
尼崎市の規程では、規格葬儀とは、市が定める規格に沿って、市が指定した葬儀業者が執り行う葬儀となっています。
利用できる方は
・死亡時に市内に居住していた人の葬儀を市内で行う場合
・喪主など葬儀を行う人が市内に居住し、葬儀を行う場合
規格葬儀の内容
・納棺等遺体の取り扱い
・棺箱などの葬祭用品の供給
・祭壇等の飾付け及び式事の執行などの納棺から火葬までの葬儀を規格葬儀として取り扱っています。
規格葬儀の種別及び料金(全てパック料金・税込み)

パック種別パック料金
仏式三段飾り <雪>314,500円
仏式二段飾り <月>264,500円
仏式飾り祭壇なし <花>163,500円
仏式枕飾り・通夜なし <1日葬>147,000円
神式三段飾り293,800円
キリスト教式213,800円

※パック料金には、宗教者費用(お布施など)、式場使用料は含んでおりません。
総務局 市民サービス部 市民課
〒660-8501 兵庫県尼崎市東七松町1丁目23番1号 本庁北館1階
尼崎市の火葬場(斎場)
尼崎市の火葬場(斎場)所在地
名称:弥生ケ丘斎場
所在地:尼崎市弥生ケ丘町1番1号
アクセス JR尼崎駅から3km、車で10分
斎場(火葬場)は、尼崎市内に1か所あります。
この斎場には、告別室もあります。
只、通夜は出来ないようです。
尼崎市は、墓園の管理なども行っています。
身内が亡くなった場合、葬祭費支給などの手続きも必要ですので、尼崎市役所への問い合わせは必ず必要です。
尼崎市役所
〒660-8501尼崎市東七松町1丁目23番1号
身内が亡くなって行うこと
(臨終から火葬までの手続き)
尼崎市役所にまず届け出をすることを念頭に、
① 死亡診断書をもらう
最初にしなければならないのは、死亡診断書をもらうことです。
死亡診断書とは、その人が死亡したことを医師が証明する書類で、内容は死亡時刻、場所、死因などが記載されています。
② 死亡届の提出
この死亡診断書は死亡届と一枚の用紙となっており、これを故人の本籍地或いは亡くなった先の市町村役場に提出します。
③ 死体火・埋葬許可書を貰う
死亡届を出さないと遺体を火葬することはできません。
この時に死体火・埋葬許可書をもらって火葬することになります。
死亡診断書は、その臨終に立ち会った医師が作成します。
事故や変死の場合は、死亡診断書ではなく死体検案書が作成される事になります。
死体検案書は、監察医や警察に委託された医師が解剖(検死)して、死因を明確にするための書類です。
この死体検案書を死亡診断書の代わりとして提出します。
※注)市などへの死亡時の手続き
葬儀社が無料で行ってくれることが大半だと思いますが、有料であれば自分自身でも出来ることです。

尼崎の葬儀式場

尼崎市家族葬・直葬会館武庫」
(兵庫県尼崎市)
【セレモニーツナグ会館】尼崎市家族葬・直葬会館『武庫』
〒661-0044尼崎市武庫町3-4-6
【最寄り駅】
阪急電車「武庫之荘駅」
尼崎市潮江会館
(兵庫県尼崎市)
潮江福祉会館
〒661-0976
尼崎市潮江1-7-1
【最寄り駅】
JR福知山線「尼崎駅」
約320m
JR神戸線「尼崎駅」
約320m
JR東西線「尼崎駅」
約320m
JR東西線「加島駅」約1800m
阪神電車「杭瀬駅」
約1700m
駐車場有
尼崎市福田寺院(兵庫県尼崎市)
尼崎市福田寺院斎場
〒661-0953
尼崎市園田町4-33
【最寄り駅】
阪急電車「園田駅」約400m
JR福知山線「塚口駅」約2000m
JR福知山線「猪名寺駅」約2500m




西栄寺尼崎自支坊寺院(兵庫県尼崎市)
西栄寺尼崎支坊寺院斎場
〒660-0822
尼崎市杭瀬南新町3-2-24
【最寄り駅】
阪神電車尼崎市「杭瀬駅」約500m
阪神電車尼崎市「大物駅」約680m
阪神電車なんば線「大物駅」約690m
阪神電車なんば線「出来島駅」約1150m


尼崎市願生寺(兵庫県尼崎市)
尼崎市願生寺
〒661-0001
尼崎市塚口本町1-23-5
【最寄り駅】
阪急電車尼崎「塚口駅」約330m
阪急電車伊丹線尼崎「塚口駅」約340m
JR福知山線「塚口駅」約650m
JR福知山線「猪名寺駅」約1100m
阪急電車伊丹線「稲野駅」約1230m

尼崎市清水町福祉会館(兵庫県尼崎市)
尼崎市清水町福祉会館
〒661-0001
尼崎市塚口本町2-23-14
【最寄り駅】
阪急電車尼崎「塚口駅」約410m
阪急電車伊丹線「稲野駅」約1150m
阪急電車伊丹線「塚口駅」約410m
JR福知山線「塚口駅」約700m
JR福知山線「猪名寺駅」約1000m




尼崎市南町会館(兵庫県尼崎市)
尼崎市南町会館〒661-0001尼崎市塚口本町1-15-16
【最寄り駅】
阪急電車尼崎「塚口駅」約160m
阪急電車伊丹線「塚口駅」約170m
阪急電車伊丹線「稲野駅」約1310m
JR福知山線「塚口駅」約710m
JR福知山線「猪名寺駅」約1240m


尼崎市明徳寺(兵庫県尼崎市)
尼崎市明徳寺〒661-0972
尼崎市小中島2-11-1
【最寄り駅】
阪急電車神戸線「園田駅」約560m
JR福知山線「塚口駅」約1700m
JR神戸線「尼崎駅」約2150m

尼崎及び近隣での葬儀読経対応

「良心のお葬式」は、葬儀相談・葬儀の読経受理を活動目的として、尼崎をはじめ
・西宮・伊丹・神戸
を基軸として
・姫路・芦屋・宝塚・三田・川西・摂津・茨木・豊中・吹田
・枚方・高槻・大阪・池田・箕面・寝屋川・堺・京都・東大阪・明石・加古川・たつの・太子町・長岡京市など
の地域に於いて活動しております。

古代の葬儀

古代の葬儀
古代の葬式というものは、もともとは死者の霊を弔うことを目的として始まったものと思われます。
歴史的に葬儀を見れば、葬儀には色々な形があったと思われます。
縄文・弥生時代の墳墓から、埋葬法の変遷がわかります。
その墓は貝塚や洞窟、そして砂丘の中に多く見いだされます。
人骨は伸展葬、屈葬、座位などのものもみられます。
死者を葬るには、土中に埋める方法が多く用いられました。土中から発見される死者は、多くは折り曲げられたり、石を抱かされたりして、この世に蘇らないように圧迫されております。

魂が抜けだす

死は、魂が抜けだす現象
日本人の間には、肉体は魂のやどるところであり、人の死は、そこに宿っている魂が抜けだした時の現象であると考え、魂の抜けた肉体は穢れているものとする考えでした。
死体は、時によると別の魂がその中に入り込んで再生するとも考えられていました。
そのようなことは、葬儀の方法や墓によってうかがうことができます。
縄文時代から弥生時代になるにしたがって、棺に納められるようになります。
これは、死者の霊を恐れることと、死者の霊を大切にして、祖霊として子孫を守ってほしいという願いが込められたものと考えられます。
土葬が縄文時代から行われていたことは、各地で人骨の集積した墓と思われる遺跡が発掘されていることなどから明らかです。
又、日本の火葬は、僧侶・道昭の葬儀において、火葬が最初と記されている文献があります。
只、縄文時代の遺跡から焼人骨が見つかっていることから、縄文時代に、既に火葬が行われていたのではないかと推定されます。

死者の葬儀・霊魂・死霊観


日本人の間には、古くから肉体には魂のやどるところであり、人の死は、そこに宿っている魂が抜けだした時の現象であると考え、魂の抜けた肉体は、けがれているものとする考えでした。
死体は、時によると別の魂がその中に入り込んで、再生するとも考えていようです。
そのようなことは、葬儀の方法や墓によって、うかがうことができます。
人が死んだとき、「魂よばい」をするところはきわめて多い。
西日本の各地では、屋根の上へ上がって瓦を一枚めくって、西に向かって「返せ、戻せ」と呼ぶと、魂が戻ってきて生き返ることがあると信じられていました。
もしそれで生き返えらなければ、もう生き返ることはないという伝承があります。
島根県の美保関では、井戸へ行って魂呼びをしたといいます。
これは、魂が地下へ行くものと考えたからで、京都などでは、お盆に井戸の中へシキミの葉を吊り下げておいて、それを仏壇にたてる風習がありますが、これなども、先祖の霊が地下から来ると考えたからにほかなりません。
死体のことを「ナキガラ」というのも、魂のぬけがらの意味だと思います。
このような考え方は、昔から固定していたわけではなく、時の流れなどによって変化し、土地土地によっても差異があります。
日本書紀には、旅する者が路傍で死んだ者を処理していかないために、そこに住んでいる者が困ったという話があります。
それは死の穢れが、そのあたりの住民に災いを与えると考えていたからです。
そうした場合には、連れの者が死者の処分をし、祈祷して災いの及ばないようにしなければならないようですが、連れの者にはその費用すら持ち合わせがなかったようです。
一般民衆の死体は、多くの場合は遺棄せられたようです。
貴族や豪族たちは、その死体を埋めて墳丘を造っていますが、数は限られており、一般民衆には墓はなかったと思われます。
餓鬼草紙によると、身分の高いものは埋められて土が盛られ、他の者の死体は地上にそのまま放置せられているか、箱の中に納められているかされたものと思われます。
いずれにしても、埋められるよりも、そのままに置かれて腐朽するにまかせていたのであろうと考えられます。
死体は埋めないにしても、死体を捨てる場所は決まりがあったようです。
土地土地によって違いがあるようですが、部落の端の岬のような向こう側が多く、けがれたものを、人の眼の届かぬ所に置き、人もまた死体をそこへもって行く以外は、そこへ近づこうとしなかったようです。
生きている者からすれば、死体を捨てる場所は、けがれていて近づいてはならない所であったでしょうが、そこが魂のあの世へ行く入り口であったかもしれないのです。
「一遍聖絵」には、坊さんたちが身体に石を括り付けて、水中に入って死んでいるさまが描かれています。
入水往生というものですが、これなど水の底に極楽があると考えられたからにほかならないからです。
同じころ、はやり始めた渡海入定なども似たようなものです。
これなどは、熊野の浦から小舟に乗って沖へ漕ぎ出て、再び帰ってこないのです。
海のかなたに、魂の故郷である常世が存在すると、考えたからであろうと推測できます。
死体を一定の場所におくことによって、人々はまずその中に宿っている魂が、かなたの幸福な世界へ行くことを祈ったのでしょう。
そして、魂が、なきがらから完全に去ってしまえば、もはやそのなきがらは,けがれているとは考えなかったのでしょう。
「けがれ」というのは、今日の「よごれる」という意味とは違います。
それが身につくことによって、不幸や病をもたらす性質をもったもののことなのです。
それは死者の魂がそうさせるものであるか、あるいは死者以外の魂が取り付いていて、わざわいするものであるか明らかではありません。
人間には、荒魂と和魂(にぎたま)の二つの魂があり、荒魂がわざわいするものであるとか、荒魂は時が過ぎると、和魂(にぎたま)に変わるのだという考え方もあります。
埋葬
日本の古墳の中の埋葬の様子を見ると、死体を傷つけないようにして、埋葬することがうかがえます。
縄文時代には、屈折が多いですが、その姿は、古い時代の夜具も十分でなかった時代の寝姿だったものと思われます。
そのような寝姿が、明治の初め頃までいたるところで行われていました。
昔の布団は小さなもので、手足を伸ばしては、はみ出してしまい、芋虫のようにまるくかがんで寝ていたのです。
山伏たちが峯入修行の時、笈を背負ったまま眠るのも、腰を折り膝を立て、その膝を両手に抱き、膝の上に顔を伏せた姿勢で眠れば、どんなに寒くても風邪をひかぬとも言われていました。
これは、屈折の姿勢の一つです。
足腰を伸ばしたままの葬法は弥生時代から起こり、古墳では殆どこれに変わっています。
身体を丸くして寝るのは、風邪をひかぬためばかりではなく、魂の抜け出ることを恐れたためではないでしょうか。
足腰を伸ばして眠ると、魂が抜けだしやすいと考えたのでしょう。
夢を見るということは、魂の抜けだすことであり、人魂の飛ぶというのは、魂が身体から抜け出してさまよい歩いている姿だとも言われています。
只、貴族たちは夜寝るときは、足腰を伸ばしていたようで、魂の抜けださないように鎮魂の祈祷を行い「たまむすび」ということをしたようです。
元気な時には、魂が身体から抜け出すようなことがあっても又、すぐに戻ってくるものと考えていたようですが、時には、別の魂が入り込むこともあると信じられたのは「憑き物」の俗信が物語っています。
狐がついたり狸がついたり、死霊、怨念、生霊などがつくと考えられたのは、そうしたものがついたとき、本人の魂はどこかにいっており、そのついている物が身体内に留まっている間は、その人自身の魂は、どこかにうろついていると考えられていました。
しかも、色々な魂が人間の身体に入ったり出たりするのは、魂が勝手にそうしているのではなく、その魂の上にもう一つ強い力を持つものがいて、それが色々の魂を支配していると考えられていたからです。
それが仏であったり、鬼であったりしたと思いますが、仏教渡来以前は、神が魂の支配者であると考えていたのです。
魂には上の管理者がいて、それが、人間の身体から魂を切り離したり、取り入れたりすると考えていたのです。
貴族たちはともかく、一般民衆の肉体は早く壊して、その霊を彼方の世界に追いやり、悪霊などのつくことがないようにしたものと考えていたようです。
火葬
死体を焼く風習は奈良時代からおこっており、仏教の伝来によってもたらされた新しい習俗とみられますが、その風習の一般化は著しく遅れ、今も土葬の所があります。
一般的に両墓制というのは、死体を埋めるところと、お参りするために建てる墓が別になっているものですが、一年間は埋めた所(埋め墓)へまいり、それから参り墓の方でまつりをする例が多いのです。
不慮の死をとげた者は、その肉体から魂が抜け切らないで、そのあたりをさまよっていると考えられました。
そして、それが、その付近を通る者につくと、考えられたのです。このような現象を「たたり」と言いました。
まつられることのない霊は、たたることが多かったので、たたられないようにするためには、供養して成仏させる必要があったようです。
このような考え方は、仏教が渡来してからのことであると思われますが、実は古くから日本民族の間にはそういう習俗があったようです。
僧侶が死者のまつりを行うようになってから、そのまつりが、巫女や神人達の手から次第に離れて、僧侶の専業のようになっていったと考えられます。
しかし、死人の霊の口寄せは今もなお巫女が行っています。
僧侶たちの供養によって、死者の霊は彼方の世界へ行ってたたることがなくなるし、火葬を行えば亡骸に別の霊が取り付くこともなくなるわけです。
巫女
巫女は、卜占、神游、寄弦、口寄の業をなしたと言われます。
又、巫女のことをイタコ、イタゴと呼びます。
巫女が大規模に集まることを、恐山地域ではミコマチ、イタコマチと言っています。
巫女が、死者の儀礼と、どうゆうつながりかを見てみますと、死後七日以降に行われる死者供養にかかわっているようです。
巫女の口寄は、社霊を慰める供養儀礼でありました。
あら仏が行きつくところに行けないで、家内近辺を浮遊しているので、それを冥界に送り込むために行うものです。
東北の人たちは「イタコ」について、あれは、めくらの人たちを救うために思い付いたものだと思うが、どうかね」などという場合があります。
恐山は、イタコの集まるところで、イタコになるには少女時代に一定の儀式があり、その修練を経た後、平泉中尊寺などから一種の免許証をもらうのです。
東北の霊山の一つとしてあげられる恐山は、人々に恐ろしい感じを与える霊山で火山と湖がその風土を構成しています。
この恐山が一年中で最も賑わいを示すのは、7月24日の地蔵講です。
この地蔵講の縁日を東北では延命利益を祈願する日としています。
それに至る七日間は、この山に死者が帰って来るので、霊に会うために恐山に行くのです。
恐山には、地獄と呼ばれるところが136もあります。
地獄というのは、仏道に背いて落ち込むところです。
この恐山には、イタコと呼ばれる巫女がいて、お寺の境内などにいます。
イタコたちは、信者と死霊との間の意思の疎通を助ける役目をします。これが口寄です。
口寄には、二種があります。
死口は、死者の霊、特に、先祖の霊を呼び出して、その気持ちを子孫に伝える役をするのです。
祖霊に対する供養を怠っているため、死霊が浮かばれず、そのために家人に病がたえないこと、或いは戦死した息子などと通じてくれます。
生口というのは、遠くに出稼ぎに出たまま蒸発した人々を呼び出すものです。
この恐山を中心とする信仰は、円通寺(1525)大覚院の創設したものでありますから、16世紀以降になって盛んになったと考えられます。
死霊観
日本人の死霊観には、死後の期間を前後に大きく二分し、そのそれぞれに全く異質的な機能が働くものであることが指摘されています。
死の直後から33~50年間は、みずみずしい死者の霊魂が、喪家又は地域社会の周辺に浮遊していて、その影響力を強く及ぼしている。
ことに死後四十九日の忌み明けまでは、特に近接の位置にあってその力が強く働いている。
日本人は、祖霊に対して最も恐るべき存在であるとともに、最も親しむべき尊敬に価するものと考え、このため生者は彼らを定期的に招待すべきとしています。
人が喜ぶときは、神も喜ぶものと考えて、招待の時期としても花咲く春、新酒の出来るころ、収穫期としています。
その際には、供養をすると同時に魔除けの呪術を怠らぬように努める必要がありました。
これは祖先にささげたものが、他の悪霊によって荒らされぬようにと考えたためだといわれていますが、その実は祖霊に対しては、親愛感とともに、一種の恐怖感を持っていたのでしょう。
このように我が国においては、祖霊信仰が固有信仰として知られています。
神奈川県下のある部落の調査によれば、真宗・禅宗を問わず土葬です。
死者が出ると白紙でもって神棚を蔽い、死穢の神に及ぶことを避ける気持ちがあります。
しかし、一般に真宗地帯の門徒の家では、この神隠し作法を行わないところが多いようです。
真宗檀家では死の忌に対し鋭敏に対応する習俗が見当たらない場合が多いからです。
にもかかわらず、この部落の門徒が、一般的な傾向と逆な行き方を取っていることは注意しなければならないでしょう。
それは、菩提寺の親戚縁者に死を告げに行く使い人の作法や、死者の枕頭における供養儀礼、死者を葬送する方式、忌服のしかたなどに現れてきます。
臨終が伝わると、死者にとって血の濃い順に末期の水を飲ませてから北枕に向きを変え、死骸の上に刃物を置きます。
魔性のものが死者に襲い掛かることを防ぐ呪法です。
それと同時に、庭先の隅に三本支柱の棒を立て、それに鍋をかけて枕飯を炊く準備をします。
別に枕団子を作ります。
湯灌や通夜も念ごろに行われています。
この穢をいみ、清浄を尊ぶという考え方に支えられた葬送習俗は、全国の津々浦々の農山漁村に例を見ることができます。
又、古代以来、死に対して喪に服する場合が多いです。
盆と祖霊
盆が、日本において、庶民の生活の中で生かされたのは中世以降からです。
山から祖霊を迎えるのは盆の時ばかりではない。
盆の時には、日夜望見する山より死者の霊を迎えようとするのです。
したがって、盆には仏さまが来ておられるので留守にするわけにはいかない。
仏さまにお茶を差し上げなければならないし、色々接待をしなければならない。
だから家を留守にするわけにはいかないと考えるのです。
こうした考えは、祖霊の加護への感謝と、死者へのまつりを大切にするという意識に支えられているのです。
盂蘭盆会が祖霊祭としての意味を持ち、民間における固有の祖霊信仰と結合をした葬式仏教の形をしめすものといえます。
それは戦国期において行われたと考えられ、庶民社会への定着は徳川中期と考えられます。

近代の葬儀

江戸後期~幕末の葬儀

江戸時代以前、葬儀には色々な形があったと思いますが、葬式は死者の霊を弔うための形だったと思います。その形が形式化してしまったのは江戸後期江戸時代に檀家制度が確立されてからです。

これは寺院側の檀家支配と寺院運営経費の面で、葬儀・法要の確立化がはかられ、現代に引き継がれて葬儀・葬式の形が形成されたと思われます。

葬儀・葬式は霊を弔う儀式

葬儀・葬式とは、葬儀は死者の霊を弔う儀式であり、葬式は故人がお世話になった人とのお別れの式と考えられます。
現代では、この死者を弔う儀式とお別れの式

お葬式風景

  が区別されること無く執り行われております。

埋葬

一昔前までは、故人を埋葬するにあたって土葬が行われていました。
又、火葬するにあたっても、寺院の近くに火葬場がありその地域、地域で葬儀・葬式が行われていました。
例えば、西宮、尼崎等各地域に見られると思いますが、 墓場に阿弥陀仏

埋葬4

が置かれている建物がありますが、殆どがその場所が火葬場だったと考えられます。

一昔前の葬儀

このように一昔前の葬儀・葬式は、まず人が亡くなると僧侶が枕経をあげ、そして通夜式を行い翌日には告別式が行われていました。
そして、初七日は7日後行われていました。
高度経済成長時期頃から初七日法要

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が火葬後、つまり骨上げ後に行われるようになったと思われます。