高槻市の近年の葬儀・家族葬

このページは、高槻市の葬儀の全てについて記載しておりますので、安心して葬儀・僧侶の読経依頼が出来ると思います。

高槻市の葬儀全てがわかる

近年の色々な葬儀方法が下記の項目で分かります。

葬儀・家族葬・お坊さんの読経葬儀・高槻市(関西)
葬儀・家族葬・高槻市・「葬儀の時、お坊さんが必要」
葬儀・家族葬・高槻市での「少人数のお葬式」
葬儀・家族葬・高槻市での「小規模葬儀」
葬儀・家族葬・お坊さん・高槻市での「枕経をあげる」お葬式
葬儀・お坊さんの読経葬儀「高槻市営葬儀」
葬儀・お坊さんの読経葬儀「高槻市で市営葬儀を行う」
葬儀・家族葬・高槻市営葬儀の僧侶読経
葬儀・家族葬・高槻市営葬儀「僧侶のお経」は、別に依頼
葬儀・お坊さんの読経葬儀「高槻市で家族葬」
高槻市の葬儀「葬儀・家族葬にお坊さん」
葬儀・家族葬・高槻市で良心的葬儀を行う
葬儀・家族葬・高槻市で「仏式葬儀」
葬儀・家族葬・高槻市で浄土真宗での葬儀
高槻市の葬儀・家族葬・お寺とのお付き合いのない方
高槻市でお寺と「お付き合いをしたくない」方の葬儀
葬儀・家族葬・お坊さんの読経葬儀・高槻市「お坊さん紹介」
葬儀・お坊さんの読経葬儀「高槻市で一般葬」の葬儀
葬儀・お坊さんの読経葬儀「高槻市で1日葬」の葬儀
葬儀・家族葬「高槻市で直葬」のお葬式
葬儀・家族葬・お坊さん読経葬儀・高槻市で「自宅での葬儀」
葬儀・お坊さんの読経葬儀「高槻市の低料金葬儀」
高槻市での「格安お布施」の葬儀・家族葬
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高槻市の葬儀広報⇒おくやみ – 高槻市 新ホームページ

葬儀費用に、お布施は含まれていません

葬儀社に葬儀を依頼した場合、葬儀費用に「お布施」代は含まれておりません。
葬儀時のお坊さんのお経は、「お坊さんに直接依頼」が大原則です。

高槻市の葬儀

高槻市役所の葬儀取り組み

高槻市には、市営葬儀があります。
高槻市の市営葬儀とは、「遺族が出来ることは遺族でしていただき、葬儀業務全般を市専門職が行う」ということを前提に、提供するサービスを限定しており、金額を低く抑えている。
ということのようです。
高槻市には、葬儀式場である高槻市立葬祭センターがあります。
同センターは火葬場でもあります。
又、高槻市は葬祭費が支給されます。
その他葬儀に関して、他の届け出などがあると思いますので、必ず市への問い合わせは必要です。
高槻市役所
〒569-0067高槻市桃園町2番1号
高槻市の葬儀広報⇒おくやみ – 高槻市 新ホームページ

高槻市営葬儀式場案内

市営葬儀式場を利用できる方
・故人が高槻市民
(死亡時に高槻市民であった方の葬儀を行う場合)
・申請者が高槻市民(喪主・死亡届出人等)
・その他
(特別な事情がある場合などは斎園課にお問い合わせください)
高槻市営葬儀式場の場所
569-1101
高槻市安満御所の町4番1号
葬儀の流れ
1、市営葬儀の申し込み
2、ご遺体搬送の打ち合わせ
a.病院などから直接入場か自宅で棺に納めてからの入場
b.入場の時間
3、市営葬儀式場での打ち合わせ
a.式場施設の説明
b.粗供養・料理・供花など各種業者の手配
c.通夜・告別式のながれ、焼香順位などの説明
4、通夜
a.式進行補助員(別費用)が司会進行
b.終了後、会食
5、告別式
a.市職員が司会進行
b.出棺、火葬場へ
6、お骨上げ
a.火葬炉入場からお骨あげまでの時間は概ね90分程度
b.待ち時間に法要室(注意:利用者のみ)で会食
7、法要(注意:利用者のみ)
8、退場
式進行補助員の依頼
市営葬儀式場の利用には式進行補助員(別費用)をつけていただくことになっています。
葬儀の規模に応じて必要な人数を申し込み時、または葬祭センター窓口で相談してください。
・式進行補助員の仕事
a.通夜の司会進行
b.告別式の進行補助
c.焼香の準備、案内
d.親族、会葬者、寺院などの接待
(入場、着席の案内・お茶だし・粗供養のお渡し)
e.式場の清掃
f.法要の準備
g.着物の着付け介助
自宅、寺院、自治会集会所での葬儀でも依頼することが出来ます。
式場施設の案内
・エントランスホール
参列の方々を迎える南向きの明るいエントランスホール。
エントランス正面より右手に第1葬儀式場、左手窓口は管理事務所となっています。
正面の階段またはエレベーターで2階にあがると第2葬儀式場、第3葬儀式場および多目的室があります。
・親族控室
10畳の和室を2部屋利用できます。
また通夜式後の会食や翌朝までの仮眠をとることもできます。
・僧侶控室
僧侶が休憩、着替えをする専用の部屋となっています。
・法要室
a,1階法要室(会食専用)
b,棟地階法要室
1階法要室ではお骨あげまでの待ち時間に会食をすることができます。(定員40名)
火葬棟地階法要室ではお骨あげの後、初七日の法要や霊祭を行うことができます。(定員40名)
利用料は31,420円です。
・霊安室
自宅などにご遺体を安置する場所がない方で、市営葬儀式場で葬儀をされる方に限り利用することができます。
利用料は24時間ごとに3,140円で最長48時間までとなっています。
・立体駐車場
葬祭センター火葬場と併用の立体駐車場です。
107台の駐車スペースがあり、ご利用は無料です。
・湯沸かし室
電気コンロ、流し台、持込の飲み物などを保管する冷蔵庫を利用できます。
・シャワー室
温水シャワーを利用できます。タオルはご自分で用意してください。
・納棺室
病院などから直接入場した場合や、自宅で棺を出すスペースがない場合などにご遺体を棺に納める専用の部屋です。
葬儀会場に入場するまでの間、ご遺体を安置しておくこともできます。
葬儀会場
・第一葬儀式場
市営葬儀式場1階エントランスホールの向いに位置しています。
親族を含む会葬者10から30名程度の家族葬から60名程度の中規模葬に適した広さになっています。
葬儀の規模に合わせて座席数を調整いたします。
(定員100名以内)
注意:上のイメージは座席数を小規模葬向けに40席配置しています。
・第二葬儀式場
高い天井によって広い開放感を持つ市営葬儀式場2階ロビーに面しています。
親族を含む会葬者20から50名程度の小・中規模葬から100名を超える大規模葬儀まで幅広く対応できます。
葬儀の規模に合わせて座席数を調整いたします。
(定員150名)
注意:上のイメージは小・中規模葬向けに60席配置しています。
・第三葬儀式場
家族葬に対応した多目的室(和室)と異なりイス席の葬儀会場です。
また、多目的室を親族控室としてご使用していただきます。
親族含む会葬者25名までの家族葬(少人数葬)の利用に限定しています。
注意:あらかじめ25名を超える親族含む会葬者がある場合はご利用をお断りしています。
第1式場、または第2式場を利用してください。
注意:時間帯により、法要や会食ができない場合がありますので、申し込みの際に確認してください。
多目的室での会食は最大15名分の配膳となります。
・多目的室(家族葬・密葬)
市営葬儀式場2階の南側に面した明るい部屋です。
有効なスペース約8畳の小部屋で親族含む会葬者2から8名程度の家族葬、または密葬での利用に限定しています。
(定員15名以内)
注意:あらかじめ15名を超える親族含む会葬者がある場合はご利用をお断りしています。
第1式場、第2式場、または第3式場を利用してください。
注意:時間帯により、法要や会食ができない場合がありますので、申し込みの際に確認してください。
第3葬儀式場を使用する場合は、親族控室として利用します。

市営葬儀申し込みのながれ

病院などで亡くなってから
・医師に診断書を貰う
・印鑑の用意(死亡届、市営葬儀申込書の記入に必要)
注)死亡診断書のコピーをとっておく
平日8時45分から午後5時15分まで
1、本館1階3番窓口「市民課戸籍チーム」へ
2、死亡診断書を提出して火葬許可証を受け取る
3、本館1階17番窓口「斎園課」へ
4、市営葬儀の申し込みをする
夜間・土曜日曜・祝日・年末年始
1、本館東側地下入口から「宿日直受付」へ
2、死亡診断書を提出して火葬許可証を受け取る
3、市営葬儀の申し込みをする
注意事項
1、夜間の申し込みは、葬儀の場所、日時、寺院などの僧侶が決定していないと、受け付けることができません。
2、夜間受付の宿日直員は葬儀専門職員ではありません。
3、寺院、神社、教会などの紹介が必要な場合は、翌朝、葬儀担当職員と調整してください。
4、葬儀の内容、詳細、打ち合わせなどは、すべて翌朝、葬儀担当職員が説明します。
5、病院などからのご遺体の搬送で、夜間に自宅への搬送ができない場合は、翌朝、葬儀担当職員が手配します。
※翌朝まで、入院先の病院で安置してもらってください。
夜間等の市営葬儀電話仮予約午後5時15から午前8時00分まで
夜間来庁しての市営葬儀申込の他に電話での仮予約もできます。
1.仮予約窓口
宿日直受付(電話072‐674‐7000)
2.仮予約の内容
告別式日時及び利用希望の葬祭センター式場の仮予約が可能です。
※翌日の指定時間までに本申し込みが必要です。
3.仮申込に必要な物
死亡診断書または死体検案書をお手元にお持ちのうえお電話ください。
※死亡日時を確認させていただきます。
4.葬祭センター式場ご利用の場合のお願い
葬祭センターには、第1式場(定員100名)、第2式場(定員150名)、第3式場(定員25名)、多目的室(定員15名)の式場があります。どの式場をご利用になりたいか、お決めのうえお電話ください。

寝台車の手配

ご遺体の搬送について

病院で亡くなってから自宅にいったん帰る場合や、市営葬儀式場・集会所・寺院などの葬儀会場に直接向かう場合には、寝台車での搬送が必要です。
寝台車の手配の方法
・斎園課窓口(本館1階17番)で市営葬儀申し込みの時に手配する。
・自分で寝台車を手配する。
連絡先
斎園課(午前8時45分から午後5時15分まで)
電話 072-674-7192
宿日直室(午後5時15分から午前8時45分まで)
電話 072-674-7000
申込時の注意事項
・夜間に市営葬儀の申し込みをする場合、寝台車の手配は翌朝になります。
翌朝までは入院先の病院に安置してください。
・病院からの搬送には必ずご遺族の方の立会いが必要です。
・搬送時に担架を寝台車にのせる際、お手伝いが必要ですのでご協力をお願いします。
・夜間搬送の際、自宅や集会所にいったん安置する時には故人を寝かせてあげる布団を用意してください。
自分で手配する方へ
・宿日直員に寝台取り扱い業者の連絡先を聞いてください。
・必ず市営葬儀の申し込みをすることを伝えてください。
・入院先の病院名、○病棟の○号室または霊安室など安置している場所を伝えてください。
・故人の氏名、申請者の氏名、緊急連絡先(携帯電話の番号)を伝えてください。
・搬送先の住所(マンションなら○号室まで)を伝えてください。
・病院を出発する時間、搬送の料金を確認してください。

寺院・神社・教会の紹介

・初めて葬儀を行う場合や、菩提寺が遠方のため寺院の依頼が困難な場合などに、市営葬儀申し込みの際、高槻市内の寺院・神社・教会(以下僧侶)を紹介します。
・下の表の宗旨、宗派を必ず確認しておいてください。
・夜間に僧侶の紹介はできません。
紹介が必要な方は、葬儀担当職員が取り次ぎますのでお手数ですが翌朝もう一度市役所へおこしください。
仏式
宗派
真言宗 ・浄土宗 ・浄土真宗 ・創価学会 ・曹洞宗 ・天台宗
日蓮宗 ・日蓮正宗 ・法華宗 ・本門仏立宗 ・臨済宗 など
法礼
市営葬儀では僧侶の紹介が可能ですが、お礼の額や法要などの段取りは当家と僧侶が直接話をしていくことになります。分からないことがあればほうっておかずにどんなことでも聞いてみましょう。
またお礼の額を聞くことは決して失礼にはあたりません。
当家の経済事情や後々の付き合い方などを僧侶としっかり相談してください。
謝礼袋の渡し方
お通夜・告別式・御車料など、それぞれ袋に包んでお渡ししてもよいのですが、最近では謝礼袋をひとつにまとめてお渡しするのが一般的です。
仏式や神式の場合は袱紗(ふくさ注釈:謝礼袋を包む布)に包んでお盆に載せ、渡す直前に袱紗を取ります。
キリスト式の場合は教会などに寄付をするという形をとる場合がありますので、事前にどなたにお渡しするかを確認しておきましょう。
お渡しするタイミングは告別式の前のご挨拶にいく時が良いでしょう。

葬儀会場の決定

自宅での葬儀
葬儀に使用する部屋の広さにあわせて2段か3段の祭壇(キリスト式は2段のみ)を設置し、幕を飾り付けます。
玄関口や門には提灯を設置します。
注意:画像の門前樒は花屋で別で手配して下さい。
家族葬や密葬の場合は専用の簡易祭壇を設置し、門前提灯はつきません。
あらかじめ祭壇を設置する部屋にある家具などをできるだけ移動しておき、部屋には何もない状態にしておいてください。
自治会集会所・寺院・教会での葬儀
葬儀に使用する部屋の広さにあわせて2段か3段の祭壇(キリスト式は2段のみ)を設置し、幕を飾り付けます。
玄関口や門には提灯を設置します。
注意:画像の門前樒は花屋で別で手配して下さい。
家族葬や密葬の場合は専用の簡易祭壇を設置し、門前提灯はつきません。
あらかじめ祭壇を設置する部屋にある机やイスなどをできるだけ移動しておき、部屋には何もない状態にしておいてください。
また有料で葬儀に使用できる自治会集会所、寺院などを紹介することができます。
注意:集会所、寺院や教会の行事が優先される場合は利用できません。
市営葬儀式場での葬儀
故人、または葬儀の申請者が高槻市民であればどなたでも利用することができます。
第1式場・第2式場・第3式場・家族葬専用多目的室の中から葬儀の規模に合わせてお選びください。

葬儀に必要な費用

市営葬儀式場使用料

第1葬儀式場(定員100人)
式場使用料 157,140円
+葬儀使用料 116,380円 合計 273,520円
第2葬儀式場(定員150人)
式場使用料 209,520円
+葬儀使用料 116,380円 合計 325,900円
第3葬儀式場(定員25人)
式場使用料 104,760円
+葬儀使用料 70,280円 合計 175,040円
多目的室(定員15人)
式場使用料 38,760円
+葬儀使用料 70,280円 合計 109,040円
法要室
1葬儀 31,420円
霊安室(最長2日間)
24時間毎 3,140円

市営葬儀使用料

第1葬儀式場・第2葬儀式場
116,380円(市外料金 252,760円)
第3葬儀式場・多目的室
70,280円(市外料金 160,570円)
自宅・集会所・寺・教会など
祭壇あり 116,380円(市外料金 252,760円)
祭壇なし 70,280円(市外料金 160,570円)
その他の葬儀会場
・自治会集会所
2日間 40,000円から100,000円程度
・寺院
2日間 100,000円から350,000円程度
ドライアイス追加分
1回 3,000円
車両関係費用
・送迎用マイクロバス
送迎用マイクロバスが必要な場合は、ご相談ください。
利用されるバス会社により費用は異なります。
・寝台車による搬送
市内からの搬送1回分は、市営葬儀使用料の中に含んでおります。
市外からの搬送や夜間の搬送は、お問い合わせください。

葬祭センター火葬場

所在地
高槻市安満御所の町4番1号
休場日
・1月1日火葬時には「火葬許可証」が必要です。
葬祭センターへ必ずお持ちください。
・1日最大15件の火葬(午前10時から午後4時出棺分まで対応)を執行しています。
(友引の日は、8件の火葬で午後3時出棺分まで対応)
・すべて当日の骨上げになります。
・火葬炉の修理などの事情で予告なく火葬の受け入れ件数を減らす場合があります。
ご利用を限定
火葬炉のご利用は、申込者または故人のどちらかが高槻市民であることを優先しています。申込者・故人ともに高槻市外の場合は、1日2件(ただし、友引の日は1件)までに限定しており、下記の場合のみご利用可能です。
1、高槻市内で出棺の場合
2、高槻市外の出棺で、お住まいの市町村に火葬場がない場合等
2に該当する際は、ご相談ください。
注意:高槻市外で葬儀をされる場合は、火葬場への到着時間を確認させていただいております。
なお、到着時間が確認できない場合はお断りすることもございます。
あらかじめご了承ください。
ご利用方法
1、仮予約をする・・・業者葬儀をされる場合、依頼される業者と葬儀日程について十分調整したうえでご予約ください。電話でも予約できます。
電話での受付時間:平日午前8時45分から正午、および午後1時から午後5時15分まで
(これ以外の時間帯では、直接窓口にお越しください)
2、申込をする・・・火葬炉使用日の前日午後5時15分までに高槻市立葬祭センター使用申請書によりお申込いただき、火葬料金をお支払いください。
申込に必要なもの
認め印・火葬許可証(死亡届提出時に交付されます)
注意:なお、市営葬儀を申込の方は火葬の申込は必要ありません。

葬儀と火葬と手続き

葬儀と火葬
葬儀とは、死者を弔う宗教的な儀式のことをいいます。
法律的に遺体は24時間火葬に付すことはできません。
どのような葬儀方法を行うにあたっても24時間どこかにご遺体を安置しておかなければならないのです。
高槻市の火葬場(斎場)
所在地名称:高槻市立葬祭センター
所在地:高槻市安満御所の町4番1号
アクセス JR高槻駅から2km、車で10分
身内が亡くなって行うこと
(臨終から火葬までの手続き)
高槻市役所にまず届け出をすることを念頭に、
① 死亡診断書をもらう
最初にしなければならないのは、死亡診断書をもらうことです。
死亡診断書とは、その人が死亡したことを医師が証明する書類で、内容は死亡時刻、場所、死因などが記載されています。
② 死亡届の提出
この死亡診断書は死亡届と一枚の用紙となっており、これを故人の本籍地或いは亡くなった先の市町村役場に提出します。
③ 死体火・埋葬許可書を貰う
死亡届を出さないと遺体を火葬することはできません。この時に死体火・埋葬許可書をもらって火葬することになります。
死亡診断書は、その臨終に立ち会った医師が作成します。
事故や変死の場合は、死亡診断書ではなく死体検案書が作成される事になります。
死体検案書は、監察医や警察に委託された医師が解剖(検死)して、死因を明確にするための書類です。
この死体検案書を死亡診断書の代わりとして提出します。
※注)市などへの死亡時の手続き
葬儀社が無料で行ってくれることが大半だと思いますが、有料であれば自分自身でも出来ることです。

高槻市情勢

沿革
高槻市は、大阪平野の北東にあって、京都と大阪の中間に位置しています。
北は北摂山地に連なる山並みと丘陵、南は山間から流れ出る芥川・桧尾川などによって形成された平野が広がり、 琵琶湖から大阪湾に流れる淀川が市域の南の境になっています。
高槻はこうした変化に富んだ地勢と、淀川・山陽道(のちの西国街道)という水陸2大交通路の要衝であったために、 数多くの歴史を有してきました。
高槻市は、弥生時代以来、豊かな田園を育ててきた人々の努力は、この地を三島地域の政治的・経済的中心とし、 歴史の流れに大きな影響を与え、弁天山には三島地方で最初の王墓が出現、継体天皇の陵墓と考えられる今城塚古墳が郡家に築かれました。
戦国時代に入ると、宿場町の芥川や城下町高槻は戦場となり、寺内町である富田はことごとく消失しました。
しかし、これらの町はいち早く復興を遂げ、芥川城に三好長慶が入り、一時畿内の政治的中心は高槻に移りました。
そして、織豊時代には、キリシタン大名高山右近も登場、江戸時代になると、 高槻城は徳川幕府の重要拠点として近世城郭に生まれ変わり、城下町は繁栄しました。
又、芥川宿は街道の宿駅として整備され、富田は酒造りを中心とした商工業の町へと大きく発展しました。
高槻市は、明治・大正の時代を経て、昭和6年1月には三島郡高槻町・芥川町・清水村等の5町村が合併して、 新しく高槻町が成立、太平洋戦争さなかの昭和18年1月1日に大阪府下で9番目の都市として高槻市が誕生しました。
当時は田園風景の広がるのどかな街で、昭和23年1月には阿武野村、同25年11月には五領村を合併、 工場誘致運動を行うほか、同29年には府下衛星都市唯一の市営バスを開業しました。
高槻市は、昭和30年代にはいると成長の時代を迎え、4月には三箇牧村、翌31年9月には富田町、 さらに昭和33年4月には京都府南桑田郡樫田村を合併し、 現在の市域となりました。
又、国鉄(現JR)の快速電車の高槻駅停車によって、利便性もさらに向上し、 近代工場も進出して産業化が進展するとともに住宅建設も活発化、当初の田園風景は一変し、 大阪・京都のベッドタウンとしての色彩を強めました。
とりわけ、昭和40年代は人口が急増し、44年に20万人、 48年には30万人を突破しました。
又、高槻市は、昭和46年11月には島根県匹見町(平成16年11月1日に益田市と合併し、益田市匹見町に) 、同54年1月にはフィリピン・マニラ市、 平成3年11月にはオーストラリア・トゥーンバ市、同5年1月には福井県三方町(平成17年3月31日に上中町と合併し、若狭町に) と姉妹都市を、 昭和62年3月には中国・常州市と友好都市提携を行い、行政と市民が一体となった交流を図っています。
高槻市は、平成15年4月1日に、中核市に移行しました。

高槻及び近隣での葬儀読経対応

「良心のお葬式」は、葬儀相談・葬儀の読経(お経)受理を活動目的として、西宮をはじめ
・尼崎・伊丹・神戸
を基軸として
・姫路・芦屋・宝塚・三田・川西・摂津・茨木・豊中・吹田
・枚方・高槻・大阪・池田・箕面・寝屋川・堺・京都・東大阪・明石・加古川・たつの・太子町・長岡京市など
の地域に於いて活動しております。

高槻市の葬儀を考える↓

現代の葬儀と火葬・火葬に至る歴史

葬儀は遺族を支援する儀式

葬儀
葬儀(お葬式)は、人を弔うための儀式です。
葬儀は、人の死生観・宗教観が深く関わっていると言われています。
葬儀は、宗教が発生する以前の旧石器時代から行われてきている宗教的行為だと言えると思います。
葬儀は故人のためだけではなく、残された遺族たちが人の死を心で受け止め、そしてその遺族たちの心を支援する儀式であるともいえると思います。
葬儀の歴史
現時点で、歴史上最も古い葬儀跡といわれているのが、イラクの北部シャニダール洞窟の葬儀の痕跡です。
このシャニダール洞窟の中には、約6年前と推定されるネアンデルタール人の骨が見つかっております。
そして、その周辺にはあるはずもない花粉があったということです。
このことは死者を弔うため、花を死者の周りに添えたのではないかと推測されています。
近年の研究において、ネアンデルタール人による埋葬の習慣に関しては疑問もあるようです。
只、仮に埋葬の習慣があったとしても、現生人類のホモ・サピエンスと比較するとかなり単純な埋葬だと言われています。
古代において、ヨーロッパ・日本など世界中で考えられていたのは、霊魂は不死であり、

死亡

死後一定期間、肉体或はその肉体周辺に霊魂はとどまり、その後に冥界或は天界に旅立つと考えられていたと思います。

現代は、僧侶中心から葬儀社主導へ

現代は、通夜式があり2日間のお葬式であったのが、核家族化、高齢化社会、地域結びつきの希薄化にともなって、僧侶中心の葬儀・葬式から葬儀社主動の葬儀・葬式に変わってきました。
この変化に伴って、葬儀方法(形態)が大幅に変わってきました。

現代の葬儀の基本は3形態

現代は葬儀業界が一大産業となっていることから、葬儀業界では競争激化となっております。
葬儀社にとっては、如何に集客するかが死活問題になつております。
その為、各葬儀社は色々な葬儀形態を打ち出し集客を図っているのです。
私達はそのことに惑わされることなく、残された遺族として良いお葬式を執り行っていかなければならないと思います。現代の葬儀の執り行い方は3つの方法があります。
   ☆ 一般葬 ☆ 1日葬 ☆ 直葬(釜前葬)
です。
私たちは殆ど葬儀の経験はありません。
ですからお葬式となった場合、どうしてもお葬式イコール葬儀社となってしまいます。
ですが、やはりお葬式を依頼する以上、多少の知識があったほうが、後々後悔しない葬儀につながりますし、安心してお葬式を執り行うことが出来ると思います。
そのためには、上記のお葬式方法があることを念頭に置いて葬儀社に依頼することがよいお葬式に繋がりますし、料金的にも安心して依頼できると思います

現代は火葬が主流

遺体を火で焼いて処理する葬法を火葬といいます。
日本の火葬率はほぼ100%です。
海外の火葬率はアメリカが46%、イギリスは75%、中国は50%で日本は世界一の火葬国です。
日本の火葬が広がったのが、この百年の間で戦後からのことです。
明治期では火葬率は26、8%、当時はまだまだ土葬が主流でした。
それが、昭和30年には54%、昭和59年には94%になり、平成12年には99%となりました。
日本の葬送に関する基本法の「墓地、埋葬等に関する法律」には、火葬を義務付けるものではなく、土葬が法律によって禁じられているわけでもありません。
法律上は、火葬・土葬、両方の葬法が想定されています。
土葬よりも火葬が広まったのは衛生上の問題、土葬に比べて墓地がコンパクトにでき、火葬を取り入れた仏教の影響などが考えられます。
埋葬などの関係⇒墓地、埋葬等に関する法律の概要

日本の火葬史

日本では、土葬が縄文時代から行われていたことは、各地で人骨の集積した墓と思われる遺跡が発掘されていることなどから明らかになっています。
日本の火葬は、文武天皇4年の僧侶道昭の葬儀において火葬が最初と記されている文献があるからです。
しかし、火葬が行われたのは、この以前の古墳時代後期の大阪府堺市の陶器千塚古墳群の一つである円墳の横穴式墓室からは焼骨が見つかっています。
さらにづっとさかのぼる縄文時代の遺跡からも焼人骨が見つかっています。

火葬と仏教

文武天皇4年の僧侶道昭の火葬が、日本の葬史の幕開けとなったのは事実だと思います。
大宝3年には、持統天皇が火葬され、続く文武天皇・元明天皇・元正天皇の三大天皇も火葬されています。
これは火葬が国家が認めた葬法になったといえます。
これを機にして8世紀初頭以降、火葬の風習は急激に全国に広まっていったようです。
このような火葬の普及は「続日本記」が高僧の道昭の火葬を「日本最初の火葬」と特記したことからもうかがえるように、火葬が仏教式の葬法として導入されたことが、大きく関係していると考えられています。

火葬と仏教の結びつき

火葬と仏教が結びついたのは、開祖のブッタが火葬されたことによります。
インドでは、火葬、水葬、土葬、風葬など、様々な葬法が行われてきたがブッタが現れる以前から、火葬が重んじられてきました。
その理由としては、インド古来のバラモン教やヒンズー教では、死者の霊が煙とともに天界に昇ることができると信じられていたからという説があります。
ブッタは入滅すると遺言に従って火葬されました。
ブッタの最期を記した「マハーパリニッバーナ経」は、ブッタの教えを忠実・正確に記録し伝承されてきたとされるパーリ仏典に属しますが、
同書によれば、遊行のおりに自身の最期を察知したブッタは、弟子のアーナンダに対して「修行完成者の遺体は、転輪聖王の遺体を処理するような仕方で、処理されるべきである」と告げ、
さらに遺体を布や綿で幾重にも包んでから鉄の油槽に入れ薪を集めて火葬するようにと細かく指示しています。
転輪聖王とは、インド神話で正義によって世界を統治する理想的な王のことです。
インドには、転輪聖王のような尊貴な人に対しては、多様な葬法の中でも火葬が行われるべきだという考えがあり、それがブッタに対してもあてはめられたということだと思慮されます。
ブッタが火葬されたことによって、仏教徒の間では火葬が重んじられようになりました。
又、火葬されたブッタの遺骨である仏舎利が崇拝されるようになったことも、火葬の重視につながることとなったのです。
遺体を火葬することは「荼毘に付す」と言われ、荼毘とは、パーリ語で「燃やす」を意味します。

古代・火葬は特権階級、庶民は土葬

高僧道昭は中国唐に留学しているので、留学先で僧侶の火葬を目撃した可能性はあると思慮されます。
自らの火葬を遺命したのも、見分が下地になつているものと思われます。
ただ、持統天皇以下の火葬については、必ずしも仏教葬という認識はなく、中国の薄葬思想の影響ではないかといわれることもあります。
実際、持統天皇の場合、持統天皇は仏教を篤く信奉していたものの、火葬に僧侶がかかわったという形跡は認められないのです。
しかし、奈良時代以降、火葬は日本に着実に受け入れられていきました。
しかしながら、実際に火葬が行われていたのは、天皇や貴族、官吏、僧侶などであって庶民は無縁であったようです。
庶民は簡易な土葬が主流だったと考えられます。
「簡易な土葬」とは、野や河原、崖の横穴などに死者を置き、そのまま自然に任せる葬法のことで、死体は腐乱しつつ犬や鳥に食われたり、土の中で腐敗したり、場所が水辺であれば波・川に流されたりして消失していったのです。
平安京では、桂川や鴨川などの河原が民衆の葬送地となっていました。
承和9年(842年)、朝廷は鴨川などの河原に散乱するどくろを焼却させましたが、その数は5千5百余りだったといいます。
当時の庶民は河原に運ばれ、そのままにされるのがごく普通でした。
身寄りがないよそ者の場合は、河原ではなく市街の路上に遺体が放置されることもあったようです。
京都朱雀大路の交差点の溝や流路から人骨が出土しているからです。
盗人が荒廃した羅城門の楼上で放置された死体を目のあたりにするという「今昔物語集」に収められた説話は、芥川龍之介の短編小説の題材となったことで有名になりましたが、
この説話の最後に「その上の層には死人の骸骨ぞ多かりける。
死にたる人の葬など、えせぬをば、此の門の上にぞ置きける」と書かれており、平安後期にも都に遺体を放置する風習が残っていたことをうかがわせます。
又、平安京では西郊の化野、東山の西麓の鳥辺野が葬地として使われていました。
鳥辺野は、皇族や貴族の葬送にも使われ火葬も行われました。
平安末期には、北郊の蓮台野も葬地として知られるようになっています。
化野・鳥辺野・蓮台野は、いずれも山麓地帯でやがて共同墓地として発展していきました。
只、この当時の土葬は「死体遺棄」という意識のもとで行われていたわけではなかったと考えられています。
絵巻物「餓鬼草子」には、平安期の簡易な土葬の風景をモデルに描かれたようですが、放置された死体に供物が添えられているからです。
つまり「捨てる」側が「弔う」という意識を持っていたということも考えらるのです。

死者の葬儀・霊魂・死霊観


日本人の間には、古くから肉体には魂のやどるところであり、人の死は、そこに宿っている魂が抜けだした時の現象であると考え、魂の抜けた肉体は、けがれているものとする考えでした。
死体は、時によると別の魂がその中に入り込んで、再生するとも考えていようです。
そのようなことは、葬儀の方法や墓によって、うかがうことができます。
人が死んだとき、「魂よばい」をするところはきわめて多い。

西日本の各地では、屋根の上へ上がって瓦を一枚めくって、西に向かって「返せ、戻せ」と呼ぶと、魂が戻ってきて生き返ることがあると信じられていました。
もしそれで生き返えらなければ、もう生き返ることはないという伝承があります。
島根県の美保関では、井戸へ行って魂呼びをしたといいます。
これは、魂が地下へ行くものと考えたからで、京都などでは、お盆に井戸の中へシキミの葉を吊り下げておいて、それを仏壇にたてる風習がありますが、これなども、先祖の霊が地下から来ると考えたからにほかなりません。
死体のことを「ナキガラ」というのも、魂のぬけがらの意味だと思います。
このような考え方は、昔から固定していたわけではなく、時の流れなどによって変化し、土地土地によっても差異があります。
日本書紀には、旅する者が路傍で死んだ者を処理していかないために、そこに住んでいる者が困ったという話があります。
それは死の穢れが、そのあたりの住民に災いを与えると考えていたからです。
そうした場合には、連れの者が死者の処分をし、祈祷して災いの及ばないようにしなければならないようですが、連れの者にはその費用すら持ち合わせがなかったようです。
一般民衆の死体は、多くの場合は遺棄せられたようです。
貴族や豪族たちは、その死体を埋めて墳丘を造っていますが、数は限られており、一般民衆には墓はなかったと思われます。
餓鬼草紙によると、身分の高いものは埋められて土が盛られ、他の者の死体は地上にそのまま放置せられているか、箱の中に納められているかされたものと思われます。
いずれにしても、埋められるよりも、そのままに置かれて腐朽するにまかせていたのであろうと考えられます。
死体は埋めないにしても、死体を捨てる場所は決まりがあったようです。
土地土地によって違いがあるようですが、部落の端の岬のような向こう側が多く、けがれたものを、人の眼の届かぬ所に置き、人もまた死体をそこへもって行く以外は、そこへ近づこうとしなかったようです。
生きている者からすれば、死体を捨てる場所は、けがれていて近づいてはならない所であったでしょうが、そこが魂のあの世へ行く入り口であったかもしれないのです。
「一遍聖絵」には、坊さんたちが身体に石を括り付けて、水中に入って死んでいるさまが描かれています。
入水往生というものですが、これなど水の底に極楽があると考えられたからにほかならないからです。
同じころ、はやり始めた渡海入定なども似たようなものです。
これなどは、熊野の浦から小舟に乗って沖へ漕ぎ出て、再び帰ってこないのです。
海のかなたに、魂の故郷である常世が存在すると、考えたからであろうと推測できます。
死体を一定の場所におくことによって、人々はまずその中に宿っている魂が、かなたの幸福な世界へ行くことを祈ったのでしょう。
そして、魂が、なきがらから完全に去ってしまえば、もはやそのなきがらは,けがれているとは考えなかったのでしょう。
「けがれ」というのは、今日の「よごれる」という意味とは違います。
それが身につくことによって、不幸や病をもたらす性質をもったもののことなのです。
それは死者の魂がそうさせるものであるか、あるいは死者以外の魂が取り付いていて、わざわいするものであるか明らかではありません。
人間には、荒魂と和魂(にぎたま)の二つの魂があり、荒魂がわざわいするものであるとか、荒魂は時が過ぎると、和魂(にぎたま)に変わるのだという考え方もあります。
埋葬
日本の古墳の中の埋葬の様子を見ると、死体を傷つけないようにして、埋葬することがうかがえます。
縄文時代には、屈折が多いですが、その姿は、古い時代の夜具も十分でなかった時代の寝姿だったものと思われます。
そのような寝姿が、明治の初め頃までいたるところで行われていました。
昔の布団は小さなもので、手足を伸ばしては、はみ出してしまい、芋虫のようにまるくかがんで寝ていたのです。
山伏たちが峯入修行の時、笈を背負ったまま眠るのも、腰を折り膝を立て、その膝を両手に抱き、膝の上に顔を伏せた姿勢で眠れば、どんなに寒くても風邪をひかぬとも言われていました。
これは、屈折の姿勢の一つです。
足腰を伸ばしたままの葬法は弥生時代から起こり、古墳では殆どこれに変わっています。
身体を丸くして寝るのは、風邪をひかぬためばかりではなく、魂の抜け出ることを恐れたためではないでしょうか。
足腰を伸ばして眠ると、魂が抜けだしやすいと考えたのでしょう。
夢を見るということは、魂の抜けだすことであり、人魂の飛ぶというのは、魂が身体から抜け出してさまよい歩いている姿だとも言われています。
只、貴族たちは夜寝るときは、足腰を伸ばしていたようで、魂の抜けださないように鎮魂の祈祷を行い「たまむすび」ということをしたようです。
元気な時には、魂が身体から抜け出すようなことがあっても又、すぐに戻ってくるものと考えていたようですが、時には、別の魂が入り込むこともあると信じられたのは「憑き物」の俗信が物語っています。
狐がついたり狸がついたり、死霊、怨念、生霊などがつくと考えられたのは、そうしたものがついたとき、本人の魂はどこかにいっており、そのついている物が身体内に留まっている間は、その人自身の魂は、どこかにうろついていると考えられていました。
しかも、色々な魂が人間の身体に入ったり出たりするのは、魂が勝手にそうしているのではなく、その魂の上にもう一つ強い力を持つものがいて、それが色々の魂を支配していると考えられていたからです。
それが仏であったり、鬼であったりしたと思いますが、仏教渡来以前は、神が魂の支配者であると考えていたのです。
魂には上の管理者がいて、それが、人間の身体から魂を切り離したり、取り入れたりすると考えていたのです。
貴族たちはともかく、一般民衆の肉体は早く壊して、その霊を彼方の世界に追いやり、悪霊などのつくことがないようにしたものと考えていたようです。
火葬
死体を焼く風習は奈良時代からおこっており、仏教の伝来によってもたらされた新しい習俗とみられますが、その風習の一般化は著しく遅れ、今も土葬の所があります。
一般的に両墓制というのは、死体を埋めるところと、お参りするために建てる墓が別になっているものですが、一年間は埋めた所(埋め墓)へまいり、それから参り墓の方でまつりをする例が多いのです。
不慮の死をとげた者は、その肉体から魂が抜け切らないで、そのあたりをさまよっていると考えられました。
そして、それが、その付近を通る者につくと、考えられたのです。このような現象を「たたり」と言いました。
まつられることのない霊は、たたることが多かったので、たたられないようにするためには、供養して成仏させる必要があったようです。
このような考え方は、仏教が渡来してからのことであると思われますが、実は古くから日本民族の間にはそういう習俗があったようです。
僧侶が死者のまつりを行うようになってから、そのまつりが、巫女や神人達の手から次第に離れて、僧侶の専業のようになっていったと考えられます。
しかし、死人の霊の口寄せは今もなお巫女が行っています。
僧侶たちの供養によって、死者の霊は彼方の世界へ行ってたたることがなくなるし、火葬を行えば亡骸に別の霊が取り付くこともなくなるわけです。
巫女
巫女は、卜占、神游、寄弦、口寄の業をなしたと言われます。
又、巫女のことをイタコ、イタゴと呼びます。
巫女が大規模に集まることを、恐山地域ではミコマチ、イタコマチと言っています。
巫女が、死者の儀礼と、どうゆうつながりかを見てみますと、死後七日以降に行われる死者供養にかかわっているようです。
巫女の口寄は、社霊を慰める供養儀礼でありました。
あら仏が行きつくところに行けないで、家内近辺を浮遊しているので、それを冥界に送り込むために行うものです。
東北の人たちは「イタコ」について、あれは、めくらの人たちを救うために思い付いたものだと思うが、どうかね」などという場合があります。
恐山は、イタコの集まるところで、イタコになるには少女時代に一定の儀式があり、その修練を経た後、平泉中尊寺などから一種の免許証をもらうのです。
東北の霊山の一つとしてあげられる恐山は、人々に恐ろしい感じを与える霊山で火山と湖がその風土を構成しています。
この恐山が一年中で最も賑わいを示すのは、7月24日の地蔵講です。
この地蔵講の縁日を東北では延命利益を祈願する日としています。
それに至る七日間は、この山に死者が帰って来るので、霊に会うために恐山に行くのです。
恐山には、地獄と呼ばれるところが136もあります。
地獄というのは、仏道に背いて落ち込むところです。
この恐山には、イタコと呼ばれる巫女がいて、お寺の境内などにいます。
イタコたちは、信者と死霊との間の意思の疎通を助ける役目をします。これが口寄です。
口寄には、二種があります。
死口は、死者の霊、特に、先祖の霊を呼び出して、その気持ちを子孫に伝える役をするのです。
祖霊に対する供養を怠っているため、死霊が浮かばれず、そのために家人に病がたえないこと、或いは戦死した息子などと通じてくれます。
生口というのは、遠くに出稼ぎに出たまま蒸発した人々を呼び出すものです。
この恐山を中心とする信仰は、円通寺(1525)大覚院の創設したものでありますから、16世紀以降になって盛んになったと考えられます。
死霊観
日本人の死霊観には、死後の期間を前後に大きく二分し、そのそれぞれに全く異質的な機能が働くものであることが指摘されています。
死の直後から33~50年間は、みずみずしい死者の霊魂が、喪家又は地域社会の周辺に浮遊していて、その影響力を強く及ぼしている。
ことに死後四十九日の忌み明けまでは、特に近接の位置にあってその力が強く働いている。
日本人は、祖霊に対して最も恐るべき存在であるとともに、最も親しむべき尊敬に価するものと考え、このため生者は彼らを定期的に招待すべきとしています。
人が喜ぶときは、神も喜ぶものと考えて、招待の時期としても花咲く春、新酒の出来るころ、収穫期としています。
その際には、供養をすると同時に魔除けの呪術を怠らぬように努める必要がありました。
これは祖先にささげたものが、他の悪霊によって荒らされぬようにと考えたためだといわれていますが、その実は祖霊に対しては、親愛感とともに、一種の恐怖感を持っていたのでしょう。
このように我が国においては、祖霊信仰が固有信仰として知られています。
神奈川県下のある部落の調査によれば、真宗・禅宗を問わず土葬です。
死者が出ると白紙でもって神棚を蔽い、死穢の神に及ぶことを避ける気持ちがあります。
しかし、一般に真宗地帯の門徒の家では、この神隠し作法を行わないところが多いようです。
真宗檀家では死の忌に対し鋭敏に対応する習俗が見当たらない場合が多いからです。
にもかかわらず、この部落の門徒が、一般的な傾向と逆な行き方を取っていることは注意しなければならないでしょう。
それは、菩提寺の親戚縁者に死を告げに行く使い人の作法や、死者の枕頭における供養儀礼、死者を葬送する方式、忌服のしかたなどに現れてきます。
臨終が伝わると、死者にとって血の濃い順に末期の水を飲ませてから北枕に向きを変え、死骸の上に刃物を置きます。
魔性のものが死者に襲い掛かることを防ぐ呪法です。
それと同時に、庭先の隅に三本支柱の棒を立て、それに鍋をかけて枕飯を炊く準備をします。
別に枕団子を作ります。
湯灌や通夜も念ごろに行われています。
この穢をいみ、清浄を尊ぶという考え方に支えられた葬送習俗は、全国の津々浦々の農山漁村に例を見ることができます。
又、古代以来、死に対して喪に服する場合が多いです。
盆と祖霊
盆が、日本において、庶民の生活の中で生かされたのは中世以降からです。
山から祖霊を迎えるのは盆の時ばかりではない。
盆の時には、日夜望見する山より死者の霊を迎えようとするのです。
したがって、盆には仏さまが来ておられるので留守にするわけにはいかない。
仏さまにお茶を差し上げなければならないし、色々接待をしなければならない。
だから家を留守にするわけにはいかないと考えるのです。
こうした考えは、祖霊の加護への感謝と、死者へのまつりを大切にするという意識に支えられているのです。
盂蘭盆会が祖霊祭としての意味を持ち、民間における固有の祖霊信仰と結合をした葬式仏教の形をしめすものといえます。
それは戦国期において行われたと考えられ、庶民社会への定着は徳川中期と考えられます。

輪廻転生の思想

仏教の死生観は、輪廻転生の思想が基礎となっています。
輪廻転生とは、死後に別の生き物として何度でも生まれ変わることをいいます。
インドの古来の思想で、仏教も基本的に、この考えの上に立っています。

輪廻する世界(六道あり)

六道は、天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道です。
六道のいずれに生まれるかは、業という生前の行いによって定まるとされています。
天道
六道のうち、最もよいとされるのが天道で、帝釈天などの神々が住む世界。寿命が尽きた後は何処に転生するか分からない。
人道
天道の次に良い世界が人道で、人間が生きるこの世です。
修羅道
阿修羅が住む世界で、怒りと嫉妬心にかられ、果てしない戦いを続ける。
畜生道
動物たちの弱肉強食の世界。
餓鬼道
むさぼるように食べ呑んでも満たされない。
地獄道
釜ゆでにされるなど、責め苦を味わう。

死者を裁く閻魔(えんま)

閻魔大王の名で知られる閻魔(えんま)は、六道のうち、冥界(地獄道・餓詭道・畜生道)を支配する神です。
仏教では、人間は死後生前の行いによって、六道のうちどの世界に生まれ変わるかが決定されます。
このため、死者は現世と来世の間にある冥土(中陰)と呼ばれる世界で、生前の行いについて裁きを受けるのです。

悟りを目指す仏教

仏教を信じることによって、輪廻転生から解放(解脱)され、如来によって浄土へ導かれる。
浄土に往生した者は、再びこの世に人間として生まれ変わる。  
仏教の教えは人間の根本であり、葬儀が、仏教が起源と言われる所以です。

火葬の広がり

簡易な土葬は次第に姿を消してゆくとともに、火葬は仏教との結びつきを強めつつ、上層階級以外にも徐々に広まっていきました。
十世紀の貴賤を問わず念仏を説いた天台僧の空也は、原野に放置された庶民の遺体を集めて火葬し供養を行っています。
鎌倉時代の開祖である一遍の時宗は、京都で火葬場を運営するようになっていました。
又、中世には火葬場での天下も含めて、葬送の実務を僧侶が基本的に請け負うようになったようですが、特に火葬や埋葬、墓所の管理にあたった下級僧侶は「三昧聖」と呼ばれていました。
「三昧」とは、本来は修行した僧侶が達する禅定の境地のことです。
「法華経」に基ずく瞑想法を法華三昧といい、これを修するための道場を法華三昧堂と呼んだのです。
法華三昧は、滅罪の功徳があるとされましたが、それが死霊の鎮めの意味にもとられたのか、平安時代中期以降になると貴族たちは墓所に法華三昧堂を建立するようになり、法華三昧堂の住僧は三昧僧と呼ばれました。
この風習が民間にも次第に広まったため、「三昧」といえば墓所や火葬場の事も指すようになり、墓所に住んで葬送に従事する下級僧侶は三昧聖と呼ばれるようになったと考えられます。
平安中期に比叡山横川で天台僧源信が中心となって結成された極楽往生をめざす念仏団体「二十五三昧会」に由来するという説もあります。
二十五三昧会は、往生のための臨終作法だけでなく、メンバーが死んだ場合の遺体の葬送や墓所についても細かく規定していて、葬送互助のモデルになったとも言われています。
三昧聖には、民間布教や社会事業に尽くした奈良時代の僧・行基や、その弟子たちが既に奈良時代に民衆に火葬を行ったとする説もあります。
こうした仏教者の活躍によって、火葬が火の力と念仏の功徳によって死者の霊を鎮め、穢れた死体を白骨として浄化し聖化する儀礼として広くとらえられるようになりました。
遺体を火によって破壊し、短時間で骨だけにしてしまう火葬は、人間の死を確定してしまうことであり、味方によっては土葬よりも残虐な葬法です。
土葬に慣れ親しんでいた社会で火葬が広く受容されるには、何らかの強力な意義付けが必要であったことでありましょう。
その意義付けを仏教が担ったと思慮されます。

江戸時代には庶民にも火葬が広がる

江戸時代までは土葬が主流をなしていましたが、すでに江戸時代には江戸・大坂などの大都市ではかなり普及していたようです。
大坂の周辺には、火葬場を中心とする墓地が七か所点在していました。

当時の資料によりますと、七か所の一つである道頓堀墓所では、多いときに年間一万体以上、少ない年でも五千体以上の遺体が葬られ、うち一割弱が土葬されたといいます。
ですから、九割は火葬されたということになります。
江戸にも、小塚原に幕府の許可を得て開かれたのに始まって、千駄ケ谷、桐ケ谷、渋谷、炮録新田に火葬場がもうけられ、この五か所は「江戸の五三昧」と呼ばれました。
小塚原の場合は、一町四方ほどの範囲に二十の寺院が並び、火葬寺と呼ばれたことから各宗派の寺院で火葬が行われました。
江戸・大坂に火葬が普及した要因として、人口が密集し土地の狭い都市には、土葬よりも遺体を効率的に処理できる火葬が適していたという点と、仏教葬としての火葬のほうが故人の供養になるという宗教的意義が民衆にも浸透していたと推定できます。
半面、儒教・儒学が隆盛した江戸時代には、火葬の普及を思想・信条的な立場から批判する人々もいました。
儒者の安井真祐は、貞享2年(1685)に「非火葬論」を著し、父母の屍を火葬することはその遺体を粗雑に扱うことであり、孝心に背くことであると論じました。
祖先祭祀を重んじる儒教では、死体といえども親の体を焼くことは不孝と考えられ遺体は、棺のまま土饅頭に収める方式の土葬が理想とされていたのです。
そうした立場から近世の儒者たちは、火葬が孝心を否定する仏教の野蛮な葬法として批判したのです。

明治政府は火葬を野蛮として一時禁止

江戸から明治維新の転換期に火葬は一時禁止されたことがありました。
明治6年(1873)7月、明治政府は突然火葬禁止令を出したのです。
この法は、遺体を焼くことによって生じる煙と臭いが不潔であり、人体に悪影響を及ぼすと考えた警察の統括機関が、司法省に火葬設置場所について意見を求めたことがきっかけとなっていますが、警察の統括機関の伺いに対して政府側は「火葬は釈迦の教法に由来し野蛮で残虐なもの」と断じて早々に火葬禁止を決定したのです。
神仏分離・廃仏希釈をへて、神道国教科政策が強引に進められるなか、仏教弾圧のあおりを受けて、火葬に代わって土葬が国家的に推奨されることとなりました。
しかし、この火葬禁止令はわずか二年足らずの明治8年には解除されています。
土葬は火葬に比べて埋葬地を広くとるため、たちまち墓地不足に陥ったからです。
それと欧米において火葬の普及がはかられていたことも関係しています。
こうして火葬は政府公認になりました。
明治期にはコレラ・チフスなどの伝染病が流行したのですが、伝染病で死亡した遺体は、火葬が推奨され、衛生上の観点からも火葬が有用と評価されるようになったのです。
現在のように公営の火葬場が整備されるまでは、戦後においても地方においては、火葬は墓地の片隅や村はずれで野天で行われることが珍しくなく「野焼き」などと呼ばれました。
この火葬は、筵がかけられた棺や藁や薪で焼くもので、最初に点火するのは喪主や身内の役割で、親族や村人の協力なくしては出来ないものでした。
火葬は、歴史的には仏教との関りで普及してきましたが、もはや現代では遺体の処理方法として認知され特段の宗教性を見出すことは難しくなってきております。