葬儀(家族葬)・お坊さんのお経葬儀
奈良市「近年の葬儀・家族葬」

お布施が、格安(2万5千円~)の
良心のお葬式」へ

✆ 0120-44-24-24 072-772-7422
顧問の元警察官・現僧侶が読経対応
携帯 090-1588-2757(24時間対応)

25,000円~
[ お葬式の読経 ]




火葬場読経・1日葬の読経・家族葬の読経


詳細
25,000
[ 法事・法要 ]




四十九日法要・1周忌法要など


詳細
お坊さんのお経(読経)葬儀

葬儀・お坊さんの読経葬儀

現代は、仏教離れ・檀家・門徒制度の崩壊によって、お坊さんのお経による、お坊さんの読経葬儀を行われない方もおられます。
お経は、故人をあの世に送り、遺族の心を癒すと言われていますので、お坊さんの読経葬儀でお葬式を執り行いましょう。

奈良市の近年の葬儀・家族葬

このページは、奈良市の葬儀の全てについて記載しておりますので、安心して葬儀・僧侶の読経依頼が出来ると思います。

奈良市の葬儀全てがわかる

近年の色々な葬儀方法が下記の項目で分かります。

葬儀・家族葬・お坊さんの読経葬儀・奈良市(関西)
葬儀・お坊さんの読経葬儀・奈良市「お坊さん紹介」
お寺とのお付き合いのない方・奈良市の葬儀・家族葬
奈良市で「お寺とお付き合いをしたくない方」の葬儀・家族葬
葬儀・家族葬・お坊さん読経葬儀・奈良市で「自宅での葬儀」
葬儀・お坊さんの読経葬儀「奈良市で家族葬」
葬儀・家族葬・お坊さんのお経葬儀「奈良市で小規模葬儀
葬儀・家族葬・奈良市で少人数でのお葬式
葬儀・お坊さんの読経葬儀「奈良市で直葬」の葬儀
葬儀・お坊さんの読経葬儀「奈良市で1日葬」のお葬式
奈良市・葬儀(家族葬)の時、お坊さんが必要
奈良市の葬儀「葬儀・家族葬にお坊さん」
奈良市での「格安お布施」の葬儀・家族葬
葬儀・家族葬・奈良市で浄土真宗での葬儀
葬儀(家族葬)お坊さんのお経葬儀「奈良市の低料金葬儀」
葬儀・家族葬・奈良市で良心的葬儀を行う
葬儀・家族葬・奈良市で「仏式葬儀」
葬儀・お坊さんの読経葬儀「奈良市で一般葬」の葬儀
葬儀・家族葬・お坊さん・奈良市での「枕経をあげる」お葬式
奈良市で葬儀費用を抑えての葬儀・お坊さん読経の葬儀

葬儀費用に、お布施は含まれていません

葬儀社に葬儀を依頼した場合、葬儀費用に「お布施」代は含まれておりません。
葬儀時のお坊さんのお経は、「お坊さんに直接依頼」が大原則です。

葬儀費用

葬儀の費用は、葬儀物品や葬儀に携わった人件費だけではありません。
葬儀の費用というのは、
葬儀の費用=①基本葬儀費用+②実費+③宗教者への謝礼
の総合計なのです。
このことを理解しておかないと、法外な葬儀費用を請求されたと思います。

基本葬儀費用

基本葬儀費用とは、葬儀に必要な物品や葬儀の人件費などで、葬儀社の利益になるものです。

葬儀の実費

葬儀の実費とは、葬儀に際しての、通夜振る舞いや精進落としの飲食費、遺体搬送などの霊柩車・寝台車・マイクロバスの借り上げ費用をいいます。

宗教者への謝礼
依頼先によって、お布施額に違い

葬儀の費用に於いて、高額になる費用に宗教者へのお礼があります。
特に、お布施は、依頼先によって高額になったりしますので要注意です。
又、依頼先によっては、お布施内に仲介手数料を含めた額を請求してきます。

葬儀は「仏教が起源」

現代の葬儀は、仏教を起源とする

現代に伝わる儀礼や習俗は、仏教を起源としているものが多くあります。
その代表が葬儀・葬式です。
この葬儀・葬式は、死者が戒名(法名)を頂いて、仏(ブッダ)の弟子となり、浄土へと旅立つ儀式です。
死者は、浄土に導かれ49日後に悟りを得て、仏に成る(成仏)と言われています。

現代の習俗や文化は仏教が起源

日本に仏教が伝わったのが、536年とされています。
6世紀末に、聖徳太子が仏教を国作りの基本としたことから、様々な仏教文化が生まれました。

葬儀以外で、仏教が起源のもの

葬儀以外で、仏教を起源としているものに、お彼岸やお盆があります。
このお彼岸やお盆は、仏となった先祖を偲び、同時にこの世にいる自分たちを守ってくれるように祈る行事です。

日本に仏教が伝わって、聖徳太子が仏教を国作りの基本としたことから、様々な仏教文化(儀礼・習俗)が生まれ、その代表格が葬儀なのです。
仏教文化から、葬儀、法要が行われるようになりました。
埋葬などの関係⇒墓地、埋葬等に関する法律の概要

高槻市の葬儀を考える↓

現代の葬儀と火葬・火葬に至る歴史

葬儀は遺族を支援する儀式

葬儀
葬儀(お葬式)は、人を弔うための儀式です。
葬儀は、人の死生観・宗教観が深く関わっていると言われています。
葬儀は、宗教が発生する以前の旧石器時代から行われてきている宗教的行為だと言えると思います。
葬儀は故人のためだけではなく、残された遺族たちが人の死を心で受け止め、そしてその遺族たちの心を支援する儀式であるともいえると思います。
葬儀の歴史
現時点で、歴史上最も古い葬儀跡といわれているのが、イラクの北部シャニダール洞窟の葬儀の痕跡です。
このシャニダール洞窟の中には、約6年前と推定されるネアンデルタール人の骨が見つかっております。
そして、その周辺にはあるはずもない花粉があったということです。
このことは死者を弔うため、花を死者の周りに添えたのではないかと推測されています。
近年の研究において、ネアンデルタール人による埋葬の習慣に関しては疑問もあるようです。
只、仮に埋葬の習慣があったとしても、現生人類のホモ・サピエンスと比較するとかなり単純な埋葬だと言われています。
古代において、ヨーロッパ・日本など世界中で考えられていたのは、霊魂は不死であり、

死亡

死後一定期間、肉体或はその肉体周辺に霊魂はとどまり、その後に冥界或は天界に旅立つと考えられていたと思います。

現代は、僧侶中心から葬儀社主導へ

現代は、通夜式があり2日間のお葬式であったのが、核家族化、高齢化社会、地域結びつきの希薄化にともなって、僧侶中心の葬儀・葬式から葬儀社主動の葬儀・葬式に変わってきました。
この変化に伴って、葬儀方法(形態)が大幅に変わってきました。

現代の葬儀の基本は3形態

現代は葬儀業界が一大産業となっていることから、葬儀業界では競争激化となっております。
葬儀社にとっては、如何に集客するかが死活問題になつております。
その為、各葬儀社は色々な葬儀形態を打ち出し集客を図っているのです。
私達はそのことに惑わされることなく、残された遺族として良いお葬式を執り行っていかなければならないと思います。現代の葬儀の執り行い方は3つの方法があります。
   ☆ 一般葬 ☆ 1日葬 ☆ 直葬(釜前葬)
です。
私たちは殆ど葬儀の経験はありません。
ですからお葬式となった場合、どうしてもお葬式イコール葬儀社となってしまいます。
ですが、やはりお葬式を依頼する以上、多少の知識があったほうが、後々後悔しない葬儀につながりますし、安心してお葬式を執り行うことが出来ると思います。
そのためには、上記のお葬式方法があることを念頭に置いて葬儀社に依頼することがよいお葬式に繋がりますし、料金的にも安心して依頼できると思います

現代は火葬が主流

遺体を火で焼いて処理する葬法を火葬といいます。
日本の火葬率はほぼ100%です。
海外の火葬率はアメリカが46%、イギリスは75%、中国は50%で日本は世界一の火葬国です。
日本の火葬が広がったのが、この百年の間で戦後からのことです。
明治期では火葬率は26、8%、当時はまだまだ土葬が主流でした。
それが、昭和30年には54%、昭和59年には94%になり、平成12年には99%となりました。
日本の葬送に関する基本法の「墓地、埋葬等に関する法律」には、火葬を義務付けるものではなく、土葬が法律によって禁じられているわけでもありません。
法律上は、火葬・土葬、両方の葬法が想定されています。
土葬よりも火葬が広まったのは衛生上の問題、土葬に比べて墓地がコンパクトにでき、火葬を取り入れた仏教の影響などが考えられます。
埋葬などの関係⇒墓地、埋葬等に関する法律の概要

日本の火葬史

日本では、土葬が縄文時代から行われていたことは、各地で人骨の集積した墓と思われる遺跡が発掘されていることなどから明らかになっています。
日本の火葬は、文武天皇4年の僧侶道昭の葬儀において火葬が最初と記されている文献があるからです。
しかし、火葬が行われたのは、この以前の古墳時代後期の大阪府堺市の陶器千塚古墳群の一つである円墳の横穴式墓室からは焼骨が見つかっています。
さらにづっとさかのぼる縄文時代の遺跡からも焼人骨が見つかっています。

火葬と仏教

文武天皇4年の僧侶道昭の火葬が、日本の葬史の幕開けとなったのは事実だと思います。
大宝3年には、持統天皇が火葬され、続く文武天皇・元明天皇・元正天皇の三大天皇も火葬されています。
これは火葬が国家が認めた葬法になったといえます。
これを機にして8世紀初頭以降、火葬の風習は急激に全国に広まっていったようです。
このような火葬の普及は「続日本記」が高僧の道昭の火葬を「日本最初の火葬」と特記したことからもうかがえるように、火葬が仏教式の葬法として導入されたことが、大きく関係していると考えられています。

火葬と仏教の結びつき

火葬と仏教が結びついたのは、開祖のブッタが火葬されたことによります。
インドでは、火葬、水葬、土葬、風葬など、様々な葬法が行われてきたがブッタが現れる以前から、火葬が重んじられてきました。
その理由としては、インド古来のバラモン教やヒンズー教では、死者の霊が煙とともに天界に昇ることができると信じられていたからという説があります。
ブッタは入滅すると遺言に従って火葬されました。
ブッタの最期を記した「マハーパリニッバーナ経」は、ブッタの教えを忠実・正確に記録し伝承されてきたとされるパーリ仏典に属しますが、
同書によれば、遊行のおりに自身の最期を察知したブッタは、弟子のアーナンダに対して「修行完成者の遺体は、転輪聖王の遺体を処理するような仕方で、処理されるべきである」と告げ、
さらに遺体を布や綿で幾重にも包んでから鉄の油槽に入れ薪を集めて火葬するようにと細かく指示しています。
転輪聖王とは、インド神話で正義によって世界を統治する理想的な王のことです。
インドには、転輪聖王のような尊貴な人に対しては、多様な葬法の中でも火葬が行われるべきだという考えがあり、それがブッタに対してもあてはめられたということだと思慮されます。
ブッタが火葬されたことによって、仏教徒の間では火葬が重んじられようになりました。
又、火葬されたブッタの遺骨である仏舎利が崇拝されるようになったことも、火葬の重視につながることとなったのです。
遺体を火葬することは「荼毘に付す」と言われ、荼毘とは、パーリ語で「燃やす」を意味します。

古代・火葬は特権階級、庶民は土葬

高僧道昭は中国唐に留学しているので、留学先で僧侶の火葬を目撃した可能性はあると思慮されます。
自らの火葬を遺命したのも、見分が下地になつているものと思われます。
ただ、持統天皇以下の火葬については、必ずしも仏教葬という認識はなく、中国の薄葬思想の影響ではないかといわれることもあります。
実際、持統天皇の場合、持統天皇は仏教を篤く信奉していたものの、火葬に僧侶がかかわったという形跡は認められないのです。
しかし、奈良時代以降、火葬は日本に着実に受け入れられていきました。
しかしながら、実際に火葬が行われていたのは、天皇や貴族、官吏、僧侶などであって庶民は無縁であったようです。
庶民は簡易な土葬が主流だったと考えられます。
「簡易な土葬」とは、野や河原、崖の横穴などに死者を置き、そのまま自然に任せる葬法のことで、死体は腐乱しつつ犬や鳥に食われたり、土の中で腐敗したり、場所が水辺であれば波・川に流されたりして消失していったのです。
平安京では、桂川や鴨川などの河原が民衆の葬送地となっていました。
承和9年(842年)、朝廷は鴨川などの河原に散乱するどくろを焼却させましたが、その数は5千5百余りだったといいます。
当時の庶民は河原に運ばれ、そのままにされるのがごく普通でした。
身寄りがないよそ者の場合は、河原ではなく市街の路上に遺体が放置されることもあったようです。
京都朱雀大路の交差点の溝や流路から人骨が出土しているからです。
盗人が荒廃した羅城門の楼上で放置された死体を目のあたりにするという「今昔物語集」に収められた説話は、芥川龍之介の短編小説の題材となったことで有名になりましたが、
この説話の最後に「その上の層には死人の骸骨ぞ多かりける。
死にたる人の葬など、えせぬをば、此の門の上にぞ置きける」と書かれており、平安後期にも都に遺体を放置する風習が残っていたことをうかがわせます。
又、平安京では西郊の化野、東山の西麓の鳥辺野が葬地として使われていました。
鳥辺野は、皇族や貴族の葬送にも使われ火葬も行われました。
平安末期には、北郊の蓮台野も葬地として知られるようになっています。
化野・鳥辺野・蓮台野は、いずれも山麓地帯でやがて共同墓地として発展していきました。
只、この当時の土葬は「死体遺棄」という意識のもとで行われていたわけではなかったと考えられています。
絵巻物「餓鬼草子」には、平安期の簡易な土葬の風景をモデルに描かれたようですが、放置された死体に供物が添えられているからです。
つまり「捨てる」側が「弔う」という意識を持っていたということも考えらるのです。

死者の葬儀・霊魂・死霊観


日本人の間には、古くから肉体には魂のやどるところであり、人の死は、そこに宿っている魂が抜けだした時の現象であると考え、魂の抜けた肉体は、けがれているものとする考えでした。
死体は、時によると別の魂がその中に入り込んで、再生するとも考えていようです。
そのようなことは、葬儀の方法や墓によって、うかがうことができます。
人が死んだとき、「魂よばい」をするところはきわめて多い。

西日本の各地では、屋根の上へ上がって瓦を一枚めくって、西に向かって「返せ、戻せ」と呼ぶと、魂が戻ってきて生き返ることがあると信じられていました。
もしそれで生き返えらなければ、もう生き返ることはないという伝承があります。
島根県の美保関では、井戸へ行って魂呼びをしたといいます。
これは、魂が地下へ行くものと考えたからで、京都などでは、お盆に井戸の中へシキミの葉を吊り下げておいて、それを仏壇にたてる風習がありますが、これなども、先祖の霊が地下から来ると考えたからにほかなりません。
死体のことを「ナキガラ」というのも、魂のぬけがらの意味だと思います。
このような考え方は、昔から固定していたわけではなく、時の流れなどによって変化し、土地土地によっても差異があります。
日本書紀には、旅する者が路傍で死んだ者を処理していかないために、そこに住んでいる者が困ったという話があります。
それは死の穢れが、そのあたりの住民に災いを与えると考えていたからです。
そうした場合には、連れの者が死者の処分をし、祈祷して災いの及ばないようにしなければならないようですが、連れの者にはその費用すら持ち合わせがなかったようです。
一般民衆の死体は、多くの場合は遺棄せられたようです。
貴族や豪族たちは、その死体を埋めて墳丘を造っていますが、数は限られており、一般民衆には墓はなかったと思われます。
餓鬼草紙によると、身分の高いものは埋められて土が盛られ、他の者の死体は地上にそのまま放置せられているか、箱の中に納められているかされたものと思われます。
いずれにしても、埋められるよりも、そのままに置かれて腐朽するにまかせていたのであろうと考えられます。
死体は埋めないにしても、死体を捨てる場所は決まりがあったようです。
土地土地によって違いがあるようですが、部落の端の岬のような向こう側が多く、けがれたものを、人の眼の届かぬ所に置き、人もまた死体をそこへもって行く以外は、そこへ近づこうとしなかったようです。
生きている者からすれば、死体を捨てる場所は、けがれていて近づいてはならない所であったでしょうが、そこが魂のあの世へ行く入り口であったかもしれないのです。
「一遍聖絵」には、坊さんたちが身体に石を括り付けて、水中に入って死んでいるさまが描かれています。
入水往生というものですが、これなど水の底に極楽があると考えられたからにほかならないからです。
同じころ、はやり始めた渡海入定なども似たようなものです。
これなどは、熊野の浦から小舟に乗って沖へ漕ぎ出て、再び帰ってこないのです。
海のかなたに、魂の故郷である常世が存在すると、考えたからであろうと推測できます。
死体を一定の場所におくことによって、人々はまずその中に宿っている魂が、かなたの幸福な世界へ行くことを祈ったのでしょう。
そして、魂が、なきがらから完全に去ってしまえば、もはやそのなきがらは,けがれているとは考えなかったのでしょう。
「けがれ」というのは、今日の「よごれる」という意味とは違います。
それが身につくことによって、不幸や病をもたらす性質をもったもののことなのです。
それは死者の魂がそうさせるものであるか、あるいは死者以外の魂が取り付いていて、わざわいするものであるか明らかではありません。
人間には、荒魂と和魂(にぎたま)の二つの魂があり、荒魂がわざわいするものであるとか、荒魂は時が過ぎると、和魂(にぎたま)に変わるのだという考え方もあります。
埋葬
日本の古墳の中の埋葬の様子を見ると、死体を傷つけないようにして、埋葬することがうかがえます。
縄文時代には、屈折が多いですが、その姿は、古い時代の夜具も十分でなかった時代の寝姿だったものと思われます。
そのような寝姿が、明治の初め頃までいたるところで行われていました。
昔の布団は小さなもので、手足を伸ばしては、はみ出してしまい、芋虫のようにまるくかがんで寝ていたのです。
山伏たちが峯入修行の時、笈を背負ったまま眠るのも、腰を折り膝を立て、その膝を両手に抱き、膝の上に顔を伏せた姿勢で眠れば、どんなに寒くても風邪をひかぬとも言われていました。
これは、屈折の姿勢の一つです。
足腰を伸ばしたままの葬法は弥生時代から起こり、古墳では殆どこれに変わっています。
身体を丸くして寝るのは、風邪をひかぬためばかりではなく、魂の抜け出ることを恐れたためではないでしょうか。
足腰を伸ばして眠ると、魂が抜けだしやすいと考えたのでしょう。
夢を見るということは、魂の抜けだすことであり、人魂の飛ぶというのは、魂が身体から抜け出してさまよい歩いている姿だとも言われています。
只、貴族たちは夜寝るときは、足腰を伸ばしていたようで、魂の抜けださないように鎮魂の祈祷を行い「たまむすび」ということをしたようです。
元気な時には、魂が身体から抜け出すようなことがあっても又、すぐに戻ってくるものと考えていたようですが、時には、別の魂が入り込むこともあると信じられたのは「憑き物」の俗信が物語っています。
狐がついたり狸がついたり、死霊、怨念、生霊などがつくと考えられたのは、そうしたものがついたとき、本人の魂はどこかにいっており、そのついている物が身体内に留まっている間は、その人自身の魂は、どこかにうろついていると考えられていました。
しかも、色々な魂が人間の身体に入ったり出たりするのは、魂が勝手にそうしているのではなく、その魂の上にもう一つ強い力を持つものがいて、それが色々の魂を支配していると考えられていたからです。
それが仏であったり、鬼であったりしたと思いますが、仏教渡来以前は、神が魂の支配者であると考えていたのです。
魂には上の管理者がいて、それが、人間の身体から魂を切り離したり、取り入れたりすると考えていたのです。
貴族たちはともかく、一般民衆の肉体は早く壊して、その霊を彼方の世界に追いやり、悪霊などのつくことがないようにしたものと考えていたようです。
火葬
死体を焼く風習は奈良時代からおこっており、仏教の伝来によってもたらされた新しい習俗とみられますが、その風習の一般化は著しく遅れ、今も土葬の所があります。
一般的に両墓制というのは、死体を埋めるところと、お参りするために建てる墓が別になっているものですが、一年間は埋めた所(埋め墓)へまいり、それから参り墓の方でまつりをする例が多いのです。
不慮の死をとげた者は、その肉体から魂が抜け切らないで、そのあたりをさまよっていると考えられました。
そして、それが、その付近を通る者につくと、考えられたのです。このような現象を「たたり」と言いました。
まつられることのない霊は、たたることが多かったので、たたられないようにするためには、供養して成仏させる必要があったようです。
このような考え方は、仏教が渡来してからのことであると思われますが、実は古くから日本民族の間にはそういう習俗があったようです。
僧侶が死者のまつりを行うようになってから、そのまつりが、巫女や神人達の手から次第に離れて、僧侶の専業のようになっていったと考えられます。
しかし、死人の霊の口寄せは今もなお巫女が行っています。
僧侶たちの供養によって、死者の霊は彼方の世界へ行ってたたることがなくなるし、火葬を行えば亡骸に別の霊が取り付くこともなくなるわけです。
巫女
巫女は、卜占、神游、寄弦、口寄の業をなしたと言われます。
又、巫女のことをイタコ、イタゴと呼びます。
巫女が大規模に集まることを、恐山地域ではミコマチ、イタコマチと言っています。
巫女が、死者の儀礼と、どうゆうつながりかを見てみますと、死後七日以降に行われる死者供養にかかわっているようです。
巫女の口寄は、社霊を慰める供養儀礼でありました。
あら仏が行きつくところに行けないで、家内近辺を浮遊しているので、それを冥界に送り込むために行うものです。
東北の人たちは「イタコ」について、あれは、めくらの人たちを救うために思い付いたものだと思うが、どうかね」などという場合があります。
恐山は、イタコの集まるところで、イタコになるには少女時代に一定の儀式があり、その修練を経た後、平泉中尊寺などから一種の免許証をもらうのです。
東北の霊山の一つとしてあげられる恐山は、人々に恐ろしい感じを与える霊山で火山と湖がその風土を構成しています。
この恐山が一年中で最も賑わいを示すのは、7月24日の地蔵講です。
この地蔵講の縁日を東北では延命利益を祈願する日としています。
それに至る七日間は、この山に死者が帰って来るので、霊に会うために恐山に行くのです。
恐山には、地獄と呼ばれるところが136もあります。
地獄というのは、仏道に背いて落ち込むところです。
この恐山には、イタコと呼ばれる巫女がいて、お寺の境内などにいます。
イタコたちは、信者と死霊との間の意思の疎通を助ける役目をします。これが口寄です。
口寄には、二種があります。
死口は、死者の霊、特に、先祖の霊を呼び出して、その気持ちを子孫に伝える役をするのです。
祖霊に対する供養を怠っているため、死霊が浮かばれず、そのために家人に病がたえないこと、或いは戦死した息子などと通じてくれます。
生口というのは、遠くに出稼ぎに出たまま蒸発した人々を呼び出すものです。
この恐山を中心とする信仰は、円通寺(1525)大覚院の創設したものでありますから、16世紀以降になって盛んになったと考えられます。
死霊観
日本人の死霊観には、死後の期間を前後に大きく二分し、そのそれぞれに全く異質的な機能が働くものであることが指摘されています。
死の直後から33~50年間は、みずみずしい死者の霊魂が、喪家又は地域社会の周辺に浮遊していて、その影響力を強く及ぼしている。
ことに死後四十九日の忌み明けまでは、特に近接の位置にあってその力が強く働いている。
日本人は、祖霊に対して最も恐るべき存在であるとともに、最も親しむべき尊敬に価するものと考え、このため生者は彼らを定期的に招待すべきとしています。
人が喜ぶときは、神も喜ぶものと考えて、招待の時期としても花咲く春、新酒の出来るころ、収穫期としています。
その際には、供養をすると同時に魔除けの呪術を怠らぬように努める必要がありました。
これは祖先にささげたものが、他の悪霊によって荒らされぬようにと考えたためだといわれていますが、その実は祖霊に対しては、親愛感とともに、一種の恐怖感を持っていたのでしょう。
このように我が国においては、祖霊信仰が固有信仰として知られています。
神奈川県下のある部落の調査によれば、真宗・禅宗を問わず土葬です。
死者が出ると白紙でもって神棚を蔽い、死穢の神に及ぶことを避ける気持ちがあります。
しかし、一般に真宗地帯の門徒の家では、この神隠し作法を行わないところが多いようです。
真宗檀家では死の忌に対し鋭敏に対応する習俗が見当たらない場合が多いからです。
にもかかわらず、この部落の門徒が、一般的な傾向と逆な行き方を取っていることは注意しなければならないでしょう。
それは、菩提寺の親戚縁者に死を告げに行く使い人の作法や、死者の枕頭における供養儀礼、死者を葬送する方式、忌服のしかたなどに現れてきます。
臨終が伝わると、死者にとって血の濃い順に末期の水を飲ませてから北枕に向きを変え、死骸の上に刃物を置きます。
魔性のものが死者に襲い掛かることを防ぐ呪法です。
それと同時に、庭先の隅に三本支柱の棒を立て、それに鍋をかけて枕飯を炊く準備をします。
別に枕団子を作ります。
湯灌や通夜も念ごろに行われています。
この穢をいみ、清浄を尊ぶという考え方に支えられた葬送習俗は、全国の津々浦々の農山漁村に例を見ることができます。
又、古代以来、死に対して喪に服する場合が多いです。
盆と祖霊
盆が、日本において、庶民の生活の中で生かされたのは中世以降からです。
山から祖霊を迎えるのは盆の時ばかりではない。
盆の時には、日夜望見する山より死者の霊を迎えようとするのです。
したがって、盆には仏さまが来ておられるので留守にするわけにはいかない。
仏さまにお茶を差し上げなければならないし、色々接待をしなければならない。
だから家を留守にするわけにはいかないと考えるのです。
こうした考えは、祖霊の加護への感謝と、死者へのまつりを大切にするという意識に支えられているのです。
盂蘭盆会が祖霊祭としての意味を持ち、民間における固有の祖霊信仰と結合をした葬式仏教の形をしめすものといえます。
それは戦国期において行われたと考えられ、庶民社会への定着は徳川中期と考えられます。

輪廻転生の思想

仏教の死生観は、輪廻転生の思想が基礎となっています。
輪廻転生とは、死後に別の生き物として何度でも生まれ変わることをいいます。
インドの古来の思想で、仏教も基本的に、この考えの上に立っています。

輪廻する世界(六道あり)

六道は、天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道です。
六道のいずれに生まれるかは、業という生前の行いによって定まるとされています。
天道
六道のうち、最もよいとされるのが天道で、帝釈天などの神々が住む世界。寿命が尽きた後は何処に転生するか分からない。
人道
天道の次に良い世界が人道で、人間が生きるこの世です。
修羅道
阿修羅が住む世界で、怒りと嫉妬心にかられ、果てしない戦いを続ける。
畜生道
動物たちの弱肉強食の世界。
餓鬼道
むさぼるように食べ呑んでも満たされない。
地獄道
釜ゆでにされるなど、責め苦を味わう。

死者を裁く閻魔(えんま)

閻魔大王の名で知られる閻魔(えんま)は、六道のうち、冥界(地獄道・餓詭道・畜生道)を支配する神です。
仏教では、人間は死後生前の行いによって、六道のうちどの世界に生まれ変わるかが決定されます。
このため、死者は現世と来世の間にある冥土(中陰)と呼ばれる世界で、生前の行いについて裁きを受けるのです。

悟りを目指す仏教

仏教を信じることによって、輪廻転生から解放(解脱)され、如来によって浄土へ導かれる。
浄土に往生した者は、再びこの世に人間として生まれ変わる。  
仏教の教えは人間の根本であり、葬儀が、仏教が起源と言われる所以です。

火葬の広がり

簡易な土葬は次第に姿を消してゆくとともに、火葬は仏教との結びつきを強めつつ、上層階級以外にも徐々に広まっていきました。
十世紀の貴賤を問わず念仏を説いた天台僧の空也は、原野に放置された庶民の遺体を集めて火葬し供養を行っています。
鎌倉時代の開祖である一遍の時宗は、京都で火葬場を運営するようになっていました。
又、中世には火葬場での天下も含めて、葬送の実務を僧侶が基本的に請け負うようになったようですが、特に火葬や埋葬、墓所の管理にあたった下級僧侶は「三昧聖」と呼ばれていました。
「三昧」とは、本来は修行した僧侶が達する禅定の境地のことです。
「法華経」に基ずく瞑想法を法華三昧といい、これを修するための道場を法華三昧堂と呼んだのです。
法華三昧は、滅罪の功徳があるとされましたが、それが死霊の鎮めの意味にもとられたのか、平安時代中期以降になると貴族たちは墓所に法華三昧堂を建立するようになり、法華三昧堂の住僧は三昧僧と呼ばれました。
この風習が民間にも次第に広まったため、「三昧」といえば墓所や火葬場の事も指すようになり、墓所に住んで葬送に従事する下級僧侶は三昧聖と呼ばれるようになったと考えられます。
平安中期に比叡山横川で天台僧源信が中心となって結成された極楽往生をめざす念仏団体「二十五三昧会」に由来するという説もあります。
二十五三昧会は、往生のための臨終作法だけでなく、メンバーが死んだ場合の遺体の葬送や墓所についても細かく規定していて、葬送互助のモデルになったとも言われています。
三昧聖には、民間布教や社会事業に尽くした奈良時代の僧・行基や、その弟子たちが既に奈良時代に民衆に火葬を行ったとする説もあります。
こうした仏教者の活躍によって、火葬が火の力と念仏の功徳によって死者の霊を鎮め、穢れた死体を白骨として浄化し聖化する儀礼として広くとらえられるようになりました。
遺体を火によって破壊し、短時間で骨だけにしてしまう火葬は、人間の死を確定してしまうことであり、味方によっては土葬よりも残虐な葬法です。
土葬に慣れ親しんでいた社会で火葬が広く受容されるには、何らかの強力な意義付けが必要であったことでありましょう。
その意義付けを仏教が担ったと思慮されます。

江戸時代には庶民にも火葬が広がる

江戸時代までは土葬が主流をなしていましたが、すでに江戸時代には江戸・大坂などの大都市ではかなり普及していたようです。
大坂の周辺には、火葬場を中心とする墓地が七か所点在していました。

当時の資料によりますと、七か所の一つである道頓堀墓所では、多いときに年間一万体以上、少ない年でも五千体以上の遺体が葬られ、うち一割弱が土葬されたといいます。
ですから、九割は火葬されたということになります。
江戸にも、小塚原に幕府の許可を得て開かれたのに始まって、千駄ケ谷、桐ケ谷、渋谷、炮録新田に火葬場がもうけられ、この五か所は「江戸の五三昧」と呼ばれました。
小塚原の場合は、一町四方ほどの範囲に二十の寺院が並び、火葬寺と呼ばれたことから各宗派の寺院で火葬が行われました。
江戸・大坂に火葬が普及した要因として、人口が密集し土地の狭い都市には、土葬よりも遺体を効率的に処理できる火葬が適していたという点と、仏教葬としての火葬のほうが故人の供養になるという宗教的意義が民衆にも浸透していたと推定できます。
半面、儒教・儒学が隆盛した江戸時代には、火葬の普及を思想・信条的な立場から批判する人々もいました。
儒者の安井真祐は、貞享2年(1685)に「非火葬論」を著し、父母の屍を火葬することはその遺体を粗雑に扱うことであり、孝心に背くことであると論じました。
祖先祭祀を重んじる儒教では、死体といえども親の体を焼くことは不孝と考えられ遺体は、棺のまま土饅頭に収める方式の土葬が理想とされていたのです。
そうした立場から近世の儒者たちは、火葬が孝心を否定する仏教の野蛮な葬法として批判したのです。

明治政府は火葬を野蛮として一時禁止

江戸から明治維新の転換期に火葬は一時禁止されたことがありました。
明治6年(1873)7月、明治政府は突然火葬禁止令を出したのです。
この法は、遺体を焼くことによって生じる煙と臭いが不潔であり、人体に悪影響を及ぼすと考えた警察の統括機関が、司法省に火葬設置場所について意見を求めたことがきっかけとなっていますが、警察の統括機関の伺いに対して政府側は「火葬は釈迦の教法に由来し野蛮で残虐なもの」と断じて早々に火葬禁止を決定したのです。
神仏分離・廃仏希釈をへて、神道国教科政策が強引に進められるなか、仏教弾圧のあおりを受けて、火葬に代わって土葬が国家的に推奨されることとなりました。
しかし、この火葬禁止令はわずか二年足らずの明治8年には解除されています。
土葬は火葬に比べて埋葬地を広くとるため、たちまち墓地不足に陥ったからです。
それと欧米において火葬の普及がはかられていたことも関係しています。
こうして火葬は政府公認になりました。
明治期にはコレラ・チフスなどの伝染病が流行したのですが、伝染病で死亡した遺体は、火葬が推奨され、衛生上の観点からも火葬が有用と評価されるようになったのです。
現在のように公営の火葬場が整備されるまでは、戦後においても地方においては、火葬は墓地の片隅や村はずれで野天で行われることが珍しくなく「野焼き」などと呼ばれました。
この火葬は、筵がかけられた棺や藁や薪で焼くもので、最初に点火するのは喪主や身内の役割で、親族や村人の協力なくしては出来ないものでした。
火葬は、歴史的には仏教との関りで普及してきましたが、もはや現代では遺体の処理方法として認知され特段の宗教性を見出すことは難しくなってきております。

近年の葬儀

近年の葬儀は、葬儀業界が一大産業をなしていることから、各葬儀社・斡旋業者が色々な名目の葬儀を打ち出しています。
市民の葬儀サポートセンター「良心のお葬式」へ、ご相談・ご連絡下さい。

奈良市の葬儀情勢

奈良市は、奈良市が関係する市営葬儀、規格葬儀はありません。
只、奈良市には火葬場があり、火葬場に併設する葬儀式場はあります。
奈良市は以前あった火葬場を廃止し、新たに「奈良市斎苑旅立ちの杜」を設けました。(令和4年4月1日)
奈良市斎苑旅立ちの杜」施設概要
奈良市に東山霊苑火葬場が開設されたのが1916年。以来、故人を送る場として、百年以上もの歳月を重ね、多くの旅立ちを見守ってきました。
その火葬場が、新施設「奈良市斎苑旅立ちの杜」へと受け継がれました。
この施設は60年にわたる建て替え計画を経て、故人とご遺族を穏やかに包み込む新たな見送りの画が完成したわけです。
「奈良市斎苑旅立ちの杜」告別式兼収容室
告別室と収骨室、炉前ホールの機能が一体となった部屋を火葬炉2基に対し1室設置しています。
他のご遺族と錯綜しないプライバシーが確保された厳粛な空間で、大切な方との最後のお別れを行って頂きます。
「奈良市斎苑旅立ちの杜」火葬炉
華美な装飾を廃止し、普遍性のある厳粛で静ひつな葬送空間とし、故人の尊厳やご遺族・会葬者の心情に配慮します。
環境保全に配慮した最新式の設備で、co2排出量が少なく環境にやさしいLPガスを燃料としています。
「奈良市斎苑旅立ちの杜」多目的室
直葬や小規模なお別れに対応する多目的室。
特殊な事情による直葬に対応できるよう車寄せに面して設置。
小規模なお別れが行え、遺族控室や僧侶控室を併設します。
「奈良市斎苑旅立ちの杜」待合ホール
火葬時間中の待合等に利用できます。
目の前に高円山を、遠くに奈良の街並みを眺めながら、静かな時間を過ごせます。

奈良市の情勢

奈良は、710尼「平城京」として都が開かれ、シルクロードの東の終着駅として天平文化の華を咲かせ、かって日本の首都だった70余年の間、政治経済の中心地としておおいに栄えました。
最盛期には人口が10万人いたと言われています。
784年に都が長岡京に移った後も平城京を飾った諸大寺はそのまま残され、「南都」と呼ばれるようになり、社寺の都として生まれ変わりました。
11世紀から12世紀にかけて東大寺、興福寺、春日大社、元興寺などの社寺が勢力をもち、社寺の仕事に携わる人や農民が住む町が境内の外に出来、それらは、「郷」と呼ばれました。
12世紀後半の戦火によって多くの社寺や郷が損壊を受けましたが、復興事業が活発に進められ、郷は以前にもまして充実し、今日の奈良の原型が形作られました。
15世紀後半には応仁の乱を避けて、京都の貴族や商人が奈良に疎開してきたこともあり、京都との関係は一層親密になりました。
又、自治都市「堺」との交流も深まり、商業や手工業が発達しました。
16世紀初めには東大寺、興福寺といった支配を超えて郷と郷との連合が進み、1567年の戦乱で東大寺大仏殿は再び焼失しましたが、郷民によるまちづくりが発展し、1595年の文禄検知によって、近世の奈良町が成立しました。
明治維新には廃仏毀釈により多くの寺院が衰退し、廃藩置県の後奈良県は一時期、堺県や大阪府に合併されましたが、1887年には奈良県庁が奈良町に復帰し、1898年に人口29,986人、面積23,44㎢の規模で奈良市制が施行されました。
1892年にJR関西線が開通しました。
1914年には、奈良・大阪間が開通しました。
2005年4月には、奈良市、月ヶ瀬村、などが合併し新生「奈良市」が誕生しました。
奈良市の位置
奈良市は、奈良県の北端に位置し、西は生駒山、南は大和郡山市、天理市、桜井市、東は宇陀市・山辺郡山添村・三重県伊賀市、北は京都府に接しています。
奈良市は、東西33,51㎞、南北22,22㎞、面積は276,94㎢で奈良県の総面積の7,5%を占めています。
奈良市の人口など(令和5年1月1日現在)
人口:351,418人、世帯数:166,772世帯

高槻及び近隣での葬儀読経対応

「良心のお葬式」は、葬儀相談・葬儀の読経(お経)受理を活動目的として、西宮をはじめ
・尼崎・伊丹・神戸
を基軸として
・姫路・芦屋・宝塚・三田・川西・摂津・茨木・豊中・吹田
・枚方・高槻・大阪・池田・箕面・寝屋川・堺・京都・東大阪・明石・加古川・たつの・太子町・長岡京市・奈良など
の地域に於いて活動しております。