葬儀社の応答で、葬儀社の良し悪しを判断
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葬儀業界は一大産業葬儀社の増加

高齢化社会
近年は高齢化社会といわれ、人口の3分の1が65歳以上となっているといわれています。
団塊の世代はここ20年で亡くなっていかれるともいわれています。
人間どうしても生老病死でお釈迦さまが悩まれたようにいつかは死を迎えなければなりません。

色々な葬儀社の増加
先に述べましたように高齢化社会となって多くの葬儀が見込まれています。
又、現代は葬儀にはお金をかけない方も増え、小規模の葬儀を行うことから、葬儀社のお世話をする担当者も少なくなって、小規模の葬儀社が増えてきております。

メデァの発達
身内に死者が出た場合、遺族等は以前と違いスマートフォンなどによって、葬儀社を捜すようになってきております。
そのメデァの発達によって、葬儀社の斡旋・僧侶の斡旋を行う業者も葬儀業界に進出してきております。

自分宅にあった葬儀社さが

葬儀社選びの基準

自分宅にあった葬儀社は?

自分が考えている葬儀を行うためには、自分宅に見合った葬儀社を選ばなければなりません。
(葬儀社選び) 
そのためには、「自分宅に見合った葬儀はどのようなものにするか」を考えなければなりません。
その指標となるのが、下記に記載している目安・葬儀方針を決めることだと思います。 
そして、葬儀方針に沿って葬儀社を選べばいいのです。
1、自分宅の葬儀の目安
例えば、
(1)殆ど親戚が無い。
(2)近くには身内はいないが遠くには多くの親戚が多い。
(3)商売をしているので付き合いが多い。
(4)普通の家庭だが、勤め先の付き合いを重視しなければならない。
(5)遠方への単身赴任で、葬儀の日にちを余りとることが出来ない。
(6)連れ合いも亡くなっており子供たちは海外にいる
(7)喪主自体が高齢で、人との付き合いが少なくなっているなど 、次に
2、自分宅の目安に見合った葬儀方針を決める
上記の目安に見合った葬儀方針を
例えば、
(1)殆ど親戚が無い→こじんまりと自宅で葬儀をしたい
(2)近くには身内はいないが、遠くには多くの親戚が多い→宿泊できる葬儀社を選ぶ
(3)商売をしているので付き合いが多い→付き合い上、立派な葬儀会館で祭壇なども立派なものにする
(4)普通の家庭だが、勤め先の付き合いを重視しなければならない→見映えも考えて、又出席者が多数になると思料し小綺麗な会館を借りる
(5)遠方への単身赴任で、葬儀の日にちを余りとることが出来ない→葬儀の日にちの短縮を考えての葬儀にする。
(6)連れ合いも亡くなっており、子供たちは海外にいる→子供たちが帰国した際に生前葬を行う。
(7)喪主自体が高齢で、人との付き合いが少なくなっている→少人数でのお葬式を考える
など 、このように自分宅の葬儀の目安、葬儀方針を決めることは、現代の葬儀方法である3方法(一般葬・1日葬・直葬)の中から1方法を選ぶ基準にもなりますし、価格差の大きい葬儀業界に於いて良い葬儀社を選ぶ基準にもなるのです。

粗雑な葬儀社に注意

現状
現代は高齢化社会となっており、葬儀業界は一大産業を成していると言われています。
又、企業も多種多様化が進み1企業が色々な分野で活動しています。
葬儀業界にあっても大手企業などが葬儀業界に携わっております。
反面、宗教離れ・仏教離れから葬儀が小規模になってきており、今まで行ってきた通夜がある一般葬だけでなく、葬儀式を行わない「直葬」や通夜が無く1日で葬儀を済ませてしまう「1日葬」という葬儀形態も出てきております。
その関係から小規模経営の葬儀社、
例えば、親子で或いは夫婦で営む小規模な葬儀社も出てきております。

葬儀は、葬儀社選びによって良し悪しが決定

近年、高齢化から多くの方が亡くなっておられます。
又、宗教離れ・仏教離れから葬儀の簡素化となってきております。
それに伴って葬儀費用の節減を行う方が増え、低価格化をうたった葬儀社も増えてきております。
私達にとっては、低価格で葬儀を執り行うことが出来るのは良いことですが、低価格のあまり粗雑な葬儀が増えていることは拭えません。
私達は、一生のうち葬儀を経験することは殆どありませんので「粗雑な葬儀」とは気づかない場合もあるのです。
現代は全てお金で決めている所があります。
ですから、葬儀費用を落とせば粗雑化に繋がっているという面もみられます。
そのことに十分注意しなければなりません。
低料金・低価格尚且つ良心的・安心な葬儀社を選ぶ
私達は低価格の葬儀を行おうとするのは当然のことだと思います。
しかし、あまり低価格を望みすぎると「安かろう、悪かろう」の葬儀社にあたってしまいます。
葬儀社は、1私企業ですから儲けを考えて当然ですが、「儲け」のために、省いてはならないところを省いている葬儀社があります。
例えば、
①参列者のお茶の接待
お茶の接待をしない。
真夏の暑い日に参列者に1杯のお茶も出さない。
これは参列者に非常に失礼なことではないでしょうか。
参列者は陰で「こんな葬儀社に良く依頼したね。葬儀費用をケチったのでは?」と、ひそひそ話を聞いたことがあります。
②祭壇があまりにも貧相
祭壇によって、葬儀費用は非常に左右されます。
あまりにもケチりすぎて、お花がパラパラしか飾られていない。
③おりんが極端に小さい。
④蝋燭が一般家庭で使用されている小さな蝋燭が使用されている
⑤葬儀式場の出入り口が狭く、車両の出入りが難しい。
にもかかわらず、誘導者(警備員)を置いていない。
式場借り上げ費用や人件費を削つているため、参列者の車両が式場に出入り出来にくく、参列者が困っている。
葬儀社のスタッフは2人などで、そのことに気付いていない。
⑥葬儀式か、法事か分からない葬儀
(案内が全くない)
低価格葬儀のため、司会、案内係などのスタッフがいなくて、「これが葬儀?」と参列者が戸惑っている。
⑦あまりにもスタッフを省いている葬儀社
葬儀スタッフが2人のため、雲隠れしたように式場に見当たらず用を足さない。
⑧派遣業の紹介で式場、葬儀業者を自由に選べず、自身が思っていた式場・葬儀業者でない
「この葬儀式場は良くない。」「この葬儀業者は良くない」と聞いている。
しかし、派遣業からの紹介のため変更が不可能である。
一生のうち殆ど経験しない葬儀に於いて、このような粗雑な葬儀社を私達は見分けることは難しいことだと思います。
どこにも相談することなく葬儀社を決める場合は、このような葬儀社があることを念頭に置いておきましょう。

良い葬儀社選びの相談を!!

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無料での葬儀情報の提供

(良い葬儀社選び)
身内の死に対し、私達は安心してよい葬儀を行いたいと願います。
只、殆ど経験のないお葬式に於いて、限られた時間内で葬儀社をさがすことは至難の業です。
「良心のお葬式」では色々な業界の方と連携して、関西地区(特に京阪神間)の葬儀情報などを収集し、安心してお葬式をして頂ければと考えております。
そのためにも色々な葬儀社、色々な葬儀情報を得るために「良心のお葬式」をご利用下さい。

葬儀社と葬儀斡旋業者

葬儀社によって費用に価格差!!
現代は、葬儀業界は一大産業を成していると言われ、色々な葬儀社が乱立しております。
今まで葬儀費用が不透明と言われてきましたが、最近ではそのことが改善されつつあります。
ですが、素人にはわかりにくい面が多々あります。
それは、葬儀費用が高額に変わりないからです。
そして、葬儀社によって、葬儀物品の高額なものを使用、高額な会館使用などによって価格差が出てきております。
葬儀の全てを知る!!
私たちは一生の間にあまり葬儀を経験することはありません。
突然のように身内が亡くなって「葬儀、どうすれば?」と困ってしまうのが現実です。
一昔のようにお爺さん・お婆さんに連れられてお寺に行っていた時代は、人が亡くなれば何をおいても「先ず、お坊さんに枕経をあげてもらう」としたものです。
ですが、最近では殆どの方がお家で亡くなることが無くなって、病院で亡くなる方が大半となり、ご遺体を病院から葬儀社の安置場所に移し、ご自宅ではないため枕経をあげることが無くなってきました。
そして、高度経済成長時代の頃より、お葬式が段々と簡素化してきて初七日法要が短縮され、最近では直葬、1日葬、式中初七日などの葬儀形態が出てきております。
葬儀費用も一昔のようにある程度決まっていたのが、高価格の葬儀、低価格の葬儀と価格も一定ではなく多種多様な葬儀も出てきております。

安心して葬儀が出来る葬儀社は?

近年は、高齢化社会であることから葬儀業界は一大産業を成して、葬儀社の乱立状態となっております。
葬儀社の乱立によって、葬儀費用の低価格化につながっていることも確かですが、反面「安かろう、悪かろう」という葬儀社もあります。
「これが葬儀式なのか?」「遺族は、このような葬儀で納得しているのか?」と思う葬儀も増えてきております。
葬儀とは、故人の人生の最後の締めくくりなのです。
それをあまりにも葬儀費用の低価格に惹かれ、「葬儀を行っています」という形だけの葬儀は如何なものかと思います。勿論、遺族の方たちは葬儀をあまり経験しませんので、「これが葬儀だ」と思い込み、葬儀社の思うがままに、葬儀を行っている所が見受けられます。
現代は、金銭で全てを評価する傾向にあります。
ですから、お金をかけなければ「これは、省きます。付いていません。」という形になっており、低価格の葬儀は、色々なものが省かれており、その価格なりの葬儀となっているのが現状です。
金銭で全てを評価するということイコール、サービスも金銭を出せばサービスがあります、というのが葬儀業界を動かしているようです。
ですから、本当に親切な安心して葬儀が出来る葬儀社を探すことが大切な時代となってきています。

葬儀斡旋企業の葬儀業界への進出

お寺離れから斡旋業が出現
お寺離れから、数十年前にお寺さんに法事を斡旋する業者が出てきていました。
最近では、お寺さんに法事や葬儀時の読経を斡旋するだけではなく、依頼者より葬儀も受付けて、その葬儀を葬儀社に斡旋する企業(葬儀斡旋会社)が出てきております。
私達はネームバリュ-に引き付けられる所があり、ネームバリュ-を利用して、葬儀業をつまり斡旋業を営んでいる企業・業者が出てきております。
この斡旋で注意が必要なのは、低価格を売りにしていますので私達には良いことかもしれませんが、斡旋料としていくらかの料金がかかりその分、葬儀業者の負担となり、葬儀社(業者)はどうしても質を落とさなければならないような状態になっているようです。(儲けるために)
業者によっての質の落とし方、或いは質量的な落とし方によっては、依頼者である私達に跳ね返ってきて、質の悪い葬儀となりかねないのです。
ですから、葬儀業者の資質が問われますが、良い葬儀業者を「突然の葬儀」で見極めるのは至難の業だと思います。

葬儀と葬儀斡旋会社

現代の葬儀状況
私達は、何時かは亡くなっていくわけですが、その際どうしても葬儀式をする・しないに関わらず、葬儀社に遺体の処理をお願いすることとなります。
現代は、遺体埋葬に関する法律によって、私達では遺体の処理は出来ぬくく、どうしても葬儀業者に頼らざるを得ません。
葬儀は「高くつく」との観念が私達にはあります。
その葬儀を「低価格」「低料金」「安心葬儀」などと謳って集客する葬儀斡旋会社が出てきております。
葬儀の斡旋・紹介を行う企業の進出
現代はメデァ・PCの発達によって多岐にわたった企業が進出してきております。
その1つが、葬儀(社)を斡旋・紹介する企業です。
これら葬儀(社)の斡旋・紹介業者は、PCなどメデァを利用して大々的に宣伝し、集客(葬儀を必要としている者)を行い、葬儀社に葬儀を斡旋・紹介して紹介料を取って会社を運営しております。
葬儀斡旋会社
葬儀斡旋会社とは、パソコン等で葬儀の宣伝広告を行い、葬儀依頼の集客を行って、受理した(依頼された)葬儀を、提携している葬儀社に斡旋し「葬儀」を行わせ又、葬儀に於いて僧侶の読経依頼の集客を行って、僧侶の読経を僧侶に斡旋し、その手配料などで会社運営を行う。
これが葬儀斡旋会社です。
現代はメデァを利用しての、宣伝広告時代
現代は、メデァを活用して広範囲に宣伝広告を行う時代だと思います。
そして現代は、多種多様な企業があり、メデァを活用して広範囲に宣伝広告を行っております。
その1つがPCの利用です。
このPCなどを利用して、多くの「葬儀集客」を行っているのが葬儀斡旋会社(業者)です。
テレビを利用しての宣伝広告を行う方法もありますが、葬儀関連会社(業者)は、PC利用が宣伝広告費用をあまりかけずに行えることから、大・中・小・個人の業者が多数利用して宣伝広告を行っています。
PC利用で宣伝集客を行うことが出来ることから、このような会社が増えつつあります。
最近では、テレビを利用しての宣伝広告も行っております。

葬儀に於ける葬儀社と葬儀斡旋会社の関係

葬儀と葬儀依頼
私達は、年月とともに老い、何時かは死を迎えなければなりません。
法事国家である以上、亡くなった人を勝手に葬るわけにはいきません。
法的な手続きを経て、ご遺体を葬ることとなります。
複雑な現代社会ではどうしても、葬儀社に依頼しなければならないと思います。
葬儀社と葬儀関連会社(業者)
前述のように私達は、自分たちだけで身内を葬ることはなかなかできません。
葬儀に関しては、葬儀社或いは葬儀関連会社(業者)に依頼しなくてはなりません。
葬儀社とは、遺体を安置、火葬場で火葬に付するまでの一連の葬儀に関する業務を行います。

葬儀に於いて、葬儀社と葬儀関連会社のどちらを選ぶべきか?

身内が亡くなった場合、葬儀社に直接依頼する方がよいか、或いは葬儀関連業者に依頼して、その業者から葬儀社を紹介してもらうのがよいか、ということになると思います。
あまり経験しないお葬式において、私達が葬儀社と葬儀関連会社のどちらを選ぶかは難しいことだと思います。
葬儀費用的には、葬儀斡旋会社の方が安く感じます。
只、当初は直接葬儀社と接触(お話)しませんので、どのような葬儀社か分かりかねます。
不安は当然残ると思います。
そのようなことを考えますと、自分宅にあった良き葬儀を行うには、利害関係の無い葬儀関係に詳しい者に「相談を行い」決めるのが一番失敗は少ないと思います。

全て、お金で解決する時代の到来

私達が直視しなければならないのは、「金銭で全てを評価する」という時代になってきているということです。
どういうことかと言いますと、「お金を出せば、良い品が手に入る」お金を出さずサービスを期待して、良い品などを得ようということはないということです。
サービスにあっても、「金銭を出してサービスを受ける」
つまり、全てがお金で決められるということなのです。
ある飲食店でのことですが、少し「ねぎを足して」と、お願いした場合、追加料金が入りますというところがありました。
つまり、全てお金で解決という時代となってきているのです。

葬儀費用を抑える時代-葬儀を安く

   →    

お葬式を安くー 葬儀費用を抑える

近年は、葬儀費用が安くなってきたと言われています。
確かに、高度経済成長期頃は、立派な葬儀会館を借りて、祭壇も立派なものにして、お葬式を豪華に、知名人は派手なお葬式にしていたと思います。
この頃から比べれば、確かに葬儀費用は安くなったと思います。
しかし、まだまだ庶民には葬儀費用は高額なものです。
近年は、核家族化・親戚縁者との希薄化の時代ですから、葬儀自体に参列される方は少人数です。
ですが、この葬儀参列者の人員に比べて、葬儀費用はまだまだ高額のままという感があります。

葬儀をいかに、安く執り行うか

私達は、葬儀費用を出来るだけ安く、そして良いお葬式を、と願うものです。
その為には、下記の事を行っていけばと思います。
1 自分が販売者になればどうするか?を考えて購入
誰しも、お金は使いたくないものです。
「出来るだけ安くあげよう」と思うのは誰しも同じです。
葬儀費用も同じで、誰しも安く行いたいと思います。
身内の者が亡くなった場合、「費用を安く」と思って、葬儀費用の安い葬儀社を探すことになります。
この場合、只々、値段が安いということで葬儀社を探せば、失敗しかねないと思います。
例えば、
私たちが物を販売しようとした場合、皆さんに購買力を促すために、皆が飛びついてくるような商品を目玉として宣伝すると思います。
そして、その目玉商品から、さらに高額な商品を買ってもらうように誘導し、販売を高めようとすると思います。
葬儀を依頼するということは、この逆の立場なのです。
売る側は、出来るだけ高く売りたい、購入者は、出来るだけ安く買いたい。
この心理を、まず理解することが大切だと思います。
むやみやたらに、値段の安いものを、と思って購入すれば、粗悪なものを掴まされかねません。
2 普段から、葬儀関係の知識を得ておく
私達は物を購入する場合、欲しいものほど購入物品について調べます。
店に行ってパンフレットを貰ったり、パソコンなどメデァを使用して詳細に調べると思います。
ですが、お葬式は突然な事案ですから、そうもいかないと思います。
ですから、パンフレットを貰いに行ったり、の余裕はないでしょう。
ゆっくりと調べることも、なかなか出来ないと思います。
ですから、終活、或は遺産相続、又は遺言書作成の時などに葬儀知識を少し入れておけば、いざとなった時には役立つと思います。
近親者に高齢者などの方がおられれば、いざという時に備えて、葬儀に関心を持っておくべきでしょう。
3 身内が亡くなれば、即、葬儀の無料相談を
身内が亡くなれば、誰しも慌ててしまうものです。
そして、お葬式のことを考えると思います。
この時に慌てないことです。
どのような葬儀を執り行うかと考えた際に、「即、頭に浮かんだ葬儀社」に連絡するのではなく、良心的・中立的な立場の葬儀相談どころに相談することです。

元警察官・現僧侶が顧問として在籍
(葬儀には、葬儀相談が必要)


元警察官現僧侶に、葬儀相談
現僧侶の携帯 09015882757

「良心のお葬式」は、葬儀・法事の市民サポートセンターです。
元警察官で現僧侶を顧問として迎え皆様の相談に応じています。
葬儀(お葬式)は、殆どの方が事前に用意される方は少ないと思います。
身内の方が亡くなった場合、どうしても動揺してしまい、「直ぐ、葬儀社に連絡!!」となってしまうようです。
後々、後悔される方もおられます。
お葬式となった場合、絶対、葬儀社依頼前に無料の事前相談を行って下さい。

近年、葬儀形態が変化
大きなお葬式から

こじんまりとしたお葬式へ
(家族葬)

高齢化社会のため、葬儀業界は一大産業
現代は、日本人口の約三分の一は65歳以上の人となっている高齢化社会です。そのため、葬儀業界では一大産業となっております。
只、現代の日本社会は核家族化・近隣との疎遠化などから一昔のように葬儀(お葬式)にはお金をかけ亡くなってきております。そのような社会状況から、葬儀業界では色々な葬儀が出現してきております。

現代の葬儀と火葬・火葬に至る歴史

葬儀は遺族を支援する儀式

葬儀
葬儀(お葬式)は、人を弔うための儀式です。
葬儀は、人の死生観・宗教観が深く関わっていると言われています。
葬儀は、宗教が発生する以前の旧石器時代から行われてきている宗教的行為だと言えると思います。
葬儀は故人のためだけではなく、残された遺族たちが人の死を心で受け止め、そしてその遺族たちの心を支援する儀式であるともいえると思います。
葬儀の歴史
現時点で、歴史上最も古い葬儀跡といわれているのが、イラクの北部シャニダール洞窟の葬儀の痕跡です。
このシャニダール洞窟の中には、約6年前と推定されるネアンデルタール人の骨が見つかっております。
そして、その周辺にはあるはずもない花粉があったということです。
このことは死者を弔うため、花を死者の周りに添えたのではないかと推測されています。
近年の研究において、ネアンデルタール人による埋葬の習慣に関しては疑問もあるようです。
只、仮に埋葬の習慣があったとしても、現生人類のホモ・サピエンスと比較するとかなり単純な埋葬だと言われています。
古代において、ヨーロッパ・日本など世界中で考えられていたのは、霊魂は不死であり、

死亡

死後一定期間、肉体或はその肉体周辺に霊魂はとどまり、その後に冥界或は天界に旅立つと考えられていたと思います。

僧侶中心から葬儀社主導へ

現代は、通夜式があり2日間のお葬式であったのが、核家族化、高齢化社会、地域結びつきの希薄化にともなって、僧侶中心の葬儀・葬式から葬儀社主動の葬儀・葬式に変わってきました。
この変化に伴って、葬儀方法(形態)が大幅に変わってきました。

現代の葬儀は3形態

現代は葬儀業界が一大産業となっていることから、葬儀業界では競争激化となっております。
葬儀社にとっては、如何に集客するかが死活問題になつております。
その為、各葬儀社は色々な葬儀形態を打ち出し集客を図っているのです。
私達はそのことに惑わされることなく、残された遺族として良いお葬式を執り行っていかなければならないと思います。現代の葬儀の執り行い方は3つの方法があります。
   ☆ 一般葬 ☆ 1日葬 ☆ 直葬(釜前葬)
です。
私たちは殆ど葬儀の経験はありません。
ですからお葬式となった場合、どうしてもお葬式イコール葬儀社となってしまいます。
ですが、やはりお葬式を依頼する以上、多少の知識があったほうが、後々後悔しない葬儀につながりますし、安心してお葬式を執り行うことが出来ると思います。
そのためには、上記のお葬式方法があることを念頭に置いて葬儀社に依頼することがよいお葬式に繋がりますし、料金的にも安心して依頼できると思います

現代は火葬が主流

遺体を火で焼いて処理する葬法を火葬といいます。
日本の火葬率はほぼ100%です。
海外の火葬率はアメリカが46%、イギリスは75%、中国は50%で日本は世界一の火葬国です。
日本の火葬が広がったのが、この百年の間で戦後からのことです。
明治期では火葬率は26、8%、当時はまだまだ土葬が主流でした。
それが、昭和30年には54%、昭和59年には94%になり、平成12年には99%となりました。
日本の葬送に関する基本法の「墓地、埋葬等に関する法律」には、火葬を義務付けるものではなく、土葬が法律によって禁じられているわけでもありません。
法律上は、火葬・土葬、両方の葬法が想定されています。
土葬よりも火葬が広まったのは衛生上の問題、土葬に比べて墓地がコンパクトにでき、火葬を取り入れた仏教の影響などが考えられます。
埋葬などの関係⇒墓地、埋葬等に関する法律の概要

火葬史

日本では、土葬が縄文時代から行われていたことは、各地で人骨の集積した墓と思われる遺跡が発掘されていることなどから明らかになっています。
日本の火葬は、文武天皇4年の僧侶道昭の葬儀において火葬が最初と記されている文献があるからです。
しかし、火葬が行われたのは、この以前の古墳時代後期の大阪府堺市の陶器千塚古墳群の一つである円墳の横穴式墓室からは焼骨が見つかっています。
さらにづっとさかのぼる縄文時代の遺跡からも焼人骨が見つかっています。

火葬と仏教

文武天皇4年の僧侶道昭の火葬が、日本の葬史の幕開けとなったのは事実だと思います。
大宝3年には、持統天皇が火葬され、続く文武天皇・元明天皇・元正天皇の三大天皇も火葬されています。
これは火葬が国家が認めた葬法になったといえます。
これを機にして8世紀初頭以降、火葬の風習は急激に全国に広まっていったようです。
このような火葬の普及は「続日本記」が高僧の道昭の火葬を「日本最初の火葬」と特記したことからもうかがえるように、火葬が仏教式の葬法として導入されたことが、大きく関係していると考えられています。

火葬と仏教の結びつき

火葬と仏教が結びついたのは、開祖のブッタが火葬されたことによります。
インドでは、火葬、水葬、土葬、風葬など、様々な葬法が行われてきたがブッタが現れる以前から、火葬が重んじられてきました。
その理由としては、インド古来のバラモン教やヒンズー教では、死者の霊が煙とともに天界に昇ることができると信じられていたからという説があります。
ブッタは入滅すると遺言に従って火葬されました。
ブッタの最期を記した「マハーパリニッバーナ経」は、ブッタの教えを忠実・正確に記録し伝承されてきたとされるパーリ仏典に属しますが、
同書によれば、遊行のおりに自身の最期を察知したブッタは、弟子のアーナンダに対して「修行完成者の遺体は、転輪聖王の遺体を処理するような仕方で、処理されるべきである」と告げ、
さらに遺体を布や綿で幾重にも包んでから鉄の油槽に入れ薪を集めて火葬するようにと細かく指示しています。
転輪聖王とは、インド神話で正義によって世界を統治する理想的な王のことです。
インドには、転輪聖王のような尊貴な人に対しては、多様な葬法の中でも火葬が行われるべきだという考えがあり、それがブッタに対してもあてはめられたということだと思慮されます。
ブッタが火葬されたことによって、仏教徒の間では火葬が重んじられようになりました。
又、火葬されたブッタの遺骨である仏舎利が崇拝されるようになったことも、火葬の重視につながることとなったのです。
遺体を火葬することは「荼毘に付す」と言われ、荼毘とは、パーリ語で「燃やす」を意味します。

古代・火葬は特権階級、庶民は土葬

高僧道昭は中国唐に留学しているので、留学先で僧侶の火葬を目撃した可能性はあると思慮されます。
自らの火葬を遺命したのも、見分が下地になつているものと思われます。
ただ、持統天皇以下の火葬については、必ずしも仏教葬という認識はなく、中国の薄葬思想の影響ではないかといわれることもあります。
実際、持統天皇の場合、持統天皇は仏教を篤く信奉していたものの、火葬に僧侶がかかわったという形跡は認められないのです。
しかし、奈良時代以降、火葬は日本に着実に受け入れられていきました。
しかしながら、実際に火葬が行われていたのは、天皇や貴族、官吏、僧侶などであって庶民は無縁であったようです。
庶民は簡易な土葬が主流だったと考えられます。
「簡易な土葬」とは、野や河原、崖の横穴などに死者を置き、そのまま自然に任せる葬法のことで、死体は腐乱しつつ犬や鳥に食われたり、土の中で腐敗したり、場所が水辺であれば波・川に流されたりして消失していったのです。
平安京では、桂川や鴨川などの河原が民衆の葬送地となっていました。
承和9年(842年)、朝廷は鴨川などの河原に散乱するどくろを焼却させましたが、その数は5千5百余りだったといいます。
当時の庶民は河原に運ばれ、そのままにされるのがごく普通でした。
身寄りがないよそ者の場合は、河原ではなく市街の路上に遺体が放置されることもあったようです。
京都朱雀大路の交差点の溝や流路から人骨が出土しているからです。
盗人が荒廃した羅城門の楼上で放置された死体を目のあたりにするという「今昔物語集」に収められた説話は、芥川龍之介の短編小説の題材となったことで有名になりましたが、
この説話の最後に「その上の層には死人の骸骨ぞ多かりける。
死にたる人の葬など、えせぬをば、此の門の上にぞ置きける」と書かれており、平安後期にも都に遺体を放置する風習が残っていたことをうかがわせます。
又、平安京では西郊の化野、東山の西麓の鳥辺野が葬地として使われていました。
鳥辺野は、皇族や貴族の葬送にも使われ火葬も行われました。
平安末期には、北郊の蓮台野も葬地として知られるようになっています。
化野・鳥辺野・蓮台野は、いずれも山麓地帯でやがて共同墓地として発展していきました。
只、この当時の土葬は「死体遺棄」という意識のもとで行われていたわけではなかったと考えられています。
絵巻物「餓鬼草子」には、平安期の簡易な土葬の風景をモデルに描かれたようですが、放置された死体に供物が添えられているからです。
つまり「捨てる」側が「弔う」という意識を持っていたということも考えらるのです。

死者の葬儀・霊魂・死霊観


日本人の間には、古くから肉体には魂のやどるところであり、人の死は、そこに宿っている魂が抜けだした時の現象であると考え、魂の抜けた肉体は、けがれているものとする考えでした。
死体は、時によると別の魂がその中に入り込んで、再生するとも考えていようです。
そのようなことは、葬儀の方法や墓によって、うかがうことができます。
人が死んだとき、「魂よばい」をするところはきわめて多い。
西日本の各地では、屋根の上へ上がって瓦を一枚めくって、西に向かって「返せ、戻せ」と呼ぶと、魂が戻ってきて生き返ることがあると信じられていました。
もしそれで生き返えらなければ、もう生き返ることはないという伝承があります。
島根県の美保関では、井戸へ行って魂呼びをしたといいます。
これは、魂が地下へ行くものと考えたからで、京都などでは、お盆に井戸の中へシキミの葉を吊り下げておいて、それを仏壇にたてる風習がありますが、これなども、先祖の霊が地下から来ると考えたからにほかなりません。
死体のことを「ナキガラ」というのも、魂のぬけがらの意味だと思います。
このような考え方は、昔から固定していたわけではなく、時の流れなどによって変化し、土地土地によっても差異があります。
日本書紀には、旅する者が路傍で死んだ者を処理していかないために、そこに住んでいる者が困ったという話があります。
それは死の穢れが、そのあたりの住民に災いを与えると考えていたからです。
そうした場合には、連れの者が死者の処分をし、祈祷して災いの及ばないようにしなければならないようですが、連れの者にはその費用すら持ち合わせがなかったようです。
一般民衆の死体は、多くの場合は遺棄せられたようです。
貴族や豪族たちは、その死体を埋めて墳丘を造っていますが、数は限られており、一般民衆には墓はなかったと思われます。
餓鬼草紙によると、身分の高いものは埋められて土が盛られ、他の者の死体は地上にそのまま放置せられているか、箱の中に納められているかされたものと思われます。
いずれにしても、埋められるよりも、そのままに置かれて腐朽するにまかせていたのであろうと考えられます。
死体は埋めないにしても、死体を捨てる場所は決まりがあったようです。
土地土地によって違いがあるようですが、部落の端の岬のような向こう側が多く、けがれたものを、人の眼の届かぬ所に置き、人もまた死体をそこへもって行く以外は、そこへ近づこうとしなかったようです。
生きている者からすれば、死体を捨てる場所は、けがれていて近づいてはならない所であったでしょうが、そこが魂のあの世へ行く入り口であったかもしれないのです。
「一遍聖絵」には、坊さんたちが身体に石を括り付けて、水中に入って死んでいるさまが描かれています。
入水往生というものですが、これなど水の底に極楽があると考えられたからにほかならないからです。
同じころ、はやり始めた渡海入定なども似たようなものです。
これなどは、熊野の浦から小舟に乗って沖へ漕ぎ出て、再び帰ってこないのです。
海のかなたに、魂の故郷である常世が存在すると、考えたからであろうと推測できます。
死体を一定の場所におくことによって、人々はまずその中に宿っている魂が、かなたの幸福な世界へ行くことを祈ったのでしょう。
そして、魂が、なきがらから完全に去ってしまえば、もはやそのなきがらは,けがれているとは考えなかったのでしょう。
「けがれ」というのは、今日の「よごれる」という意味とは違います。
それが身につくことによって、不幸や病をもたらす性質をもったもののことなのです。
それは死者の魂がそうさせるものであるか、あるいは死者以外の魂が取り付いていて、わざわいするものであるか明らかではありません。
人間には、荒魂と和魂(にぎたま)の二つの魂があり、荒魂がわざわいするものであるとか、荒魂は時が過ぎると、和魂(にぎたま)に変わるのだという考え方もあります。
埋葬
日本の古墳の中の埋葬の様子を見ると、死体を傷つけないようにして、埋葬することがうかがえます。
縄文時代には、屈折が多いですが、その姿は、古い時代の夜具も十分でなかった時代の寝姿だったものと思われます。
そのような寝姿が、明治の初め頃までいたるところで行われていました。
昔の布団は小さなもので、手足を伸ばしては、はみ出してしまい、芋虫のようにまるくかがんで寝ていたのです。
山伏たちが峯入修行の時、笈を背負ったまま眠るのも、腰を折り膝を立て、その膝を両手に抱き、膝の上に顔を伏せた姿勢で眠れば、どんなに寒くても風邪をひかぬとも言われていました。
これは、屈折の姿勢の一つです。
足腰を伸ばしたままの葬法は弥生時代から起こり、古墳では殆どこれに変わっています。
身体を丸くして寝るのは、風邪をひかぬためばかりではなく、魂の抜け出ることを恐れたためではないでしょうか。
足腰を伸ばして眠ると、魂が抜けだしやすいと考えたのでしょう。
夢を見るということは、魂の抜けだすことであり、人魂の飛ぶというのは、魂が身体から抜け出してさまよい歩いている姿だとも言われています。
只、貴族たちは夜寝るときは、足腰を伸ばしていたようで、魂の抜けださないように鎮魂の祈祷を行い「たまむすび」ということをしたようです。
元気な時には、魂が身体から抜け出すようなことがあっても又、すぐに戻ってくるものと考えていたようですが、時には、別の魂が入り込むこともあると信じられたのは「憑き物」の俗信が物語っています。
狐がついたり狸がついたり、死霊、怨念、生霊などがつくと考えられたのは、そうしたものがついたとき、本人の魂はどこかにいっており、そのついている物が身体内に留まっている間は、その人自身の魂は、どこかにうろついていると考えられていました。
しかも、色々な魂が人間の身体に入ったり出たりするのは、魂が勝手にそうしているのではなく、その魂の上にもう一つ強い力を持つものがいて、それが色々の魂を支配していると考えられていたからです。
それが仏であったり、鬼であったりしたと思いますが、仏教渡来以前は、神が魂の支配者であると考えていたのです。
魂には上の管理者がいて、それが、人間の身体から魂を切り離したり、取り入れたりすると考えていたのです。
貴族たちはともかく、一般民衆の肉体は早く壊して、その霊を彼方の世界に追いやり、悪霊などのつくことがないようにしたものと考えていたようです。
火葬
死体を焼く風習は奈良時代からおこっており、仏教の伝来によってもたらされた新しい習俗とみられますが、その風習の一般化は著しく遅れ、今も土葬の所があります。
一般的に両墓制というのは、死体を埋めるところと、お参りするために建てる墓が別になっているものですが、一年間は埋めた所(埋め墓)へまいり、それから参り墓の方でまつりをする例が多いのです。
不慮の死をとげた者は、その肉体から魂が抜け切らないで、そのあたりをさまよっていると考えられました。
そして、それが、その付近を通る者につくと、考えられたのです。このような現象を「たたり」と言いました。
まつられることのない霊は、たたることが多かったので、たたられないようにするためには、供養して成仏させる必要があったようです。
このような考え方は、仏教が渡来してからのことであると思われますが、実は古くから日本民族の間にはそういう習俗があったようです。
僧侶が死者のまつりを行うようになってから、そのまつりが、巫女や神人達の手から次第に離れて、僧侶の専業のようになっていったと考えられます。
しかし、死人の霊の口寄せは今もなお巫女が行っています。
僧侶たちの供養によって、死者の霊は彼方の世界へ行ってたたることがなくなるし、火葬を行えば亡骸に別の霊が取り付くこともなくなるわけです。
巫女
巫女は、卜占、神游、寄弦、口寄の業をなしたと言われます。
又、巫女のことをイタコ、イタゴと呼びます。
巫女が大規模に集まることを、恐山地域ではミコマチ、イタコマチと言っています。
巫女が、死者の儀礼と、どうゆうつながりかを見てみますと、死後七日以降に行われる死者供養にかかわっているようです。
巫女の口寄は、社霊を慰める供養儀礼でありました。
あら仏が行きつくところに行けないで、家内近辺を浮遊しているので、それを冥界に送り込むために行うものです。
東北の人たちは「イタコ」について、あれは、めくらの人たちを救うために思い付いたものだと思うが、どうかね」などという場合があります。
恐山は、イタコの集まるところで、イタコになるには少女時代に一定の儀式があり、その修練を経た後、平泉中尊寺などから一種の免許証をもらうのです。
東北の霊山の一つとしてあげられる恐山は、人々に恐ろしい感じを与える霊山で火山と湖がその風土を構成しています。
この恐山が一年中で最も賑わいを示すのは、7月24日の地蔵講です。
この地蔵講の縁日を東北では延命利益を祈願する日としています。
それに至る七日間は、この山に死者が帰って来るので、霊に会うために恐山に行くのです。
恐山には、地獄と呼ばれるところが136もあります。
地獄というのは、仏道に背いて落ち込むところです。
この恐山には、イタコと呼ばれる巫女がいて、お寺の境内などにいます。
イタコたちは、信者と死霊との間の意思の疎通を助ける役目をします。これが口寄です。
口寄には、二種があります。
死口は、死者の霊、特に、先祖の霊を呼び出して、その気持ちを子孫に伝える役をするのです。
祖霊に対する供養を怠っているため、死霊が浮かばれず、そのために家人に病がたえないこと、或いは戦死した息子などと通じてくれます。
生口というのは、遠くに出稼ぎに出たまま蒸発した人々を呼び出すものです。
この恐山を中心とする信仰は、円通寺(1525)大覚院の創設したものでありますから、16世紀以降になって盛んになったと考えられます。
死霊観
日本人の死霊観には、死後の期間を前後に大きく二分し、そのそれぞれに全く異質的な機能が働くものであることが指摘されています。
死の直後から33~50年間は、みずみずしい死者の霊魂が、喪家又は地域社会の周辺に浮遊していて、その影響力を強く及ぼしている。
ことに死後四十九日の忌み明けまでは、特に近接の位置にあってその力が強く働いている。
日本人は、祖霊に対して最も恐るべき存在であるとともに、最も親しむべき尊敬に価するものと考え、このため生者は彼らを定期的に招待すべきとしています。
人が喜ぶときは、神も喜ぶものと考えて、招待の時期としても花咲く春、新酒の出来るころ、収穫期としています。
その際には、供養をすると同時に魔除けの呪術を怠らぬように努める必要がありました。
これは祖先にささげたものが、他の悪霊によって荒らされぬようにと考えたためだといわれていますが、その実は祖霊に対しては、親愛感とともに、一種の恐怖感を持っていたのでしょう。
このように我が国においては、祖霊信仰が固有信仰として知られています。
神奈川県下のある部落の調査によれば、真宗・禅宗を問わず土葬です。
死者が出ると白紙でもって神棚を蔽い、死穢の神に及ぶことを避ける気持ちがあります。
しかし、一般に真宗地帯の門徒の家では、この神隠し作法を行わないところが多いようです。
真宗檀家では死の忌に対し鋭敏に対応する習俗が見当たらない場合が多いからです。
にもかかわらず、この部落の門徒が、一般的な傾向と逆な行き方を取っていることは注意しなければならないでしょう。
それは、菩提寺の親戚縁者に死を告げに行く使い人の作法や、死者の枕頭における供養儀礼、死者を葬送する方式、忌服のしかたなどに現れてきます。
臨終が伝わると、死者にとって血の濃い順に末期の水を飲ませてから北枕に向きを変え、死骸の上に刃物を置きます。
魔性のものが死者に襲い掛かることを防ぐ呪法です。
それと同時に、庭先の隅に三本支柱の棒を立て、それに鍋をかけて枕飯を炊く準備をします。
別に枕団子を作ります。
湯灌や通夜も念ごろに行われています。
この穢をいみ、清浄を尊ぶという考え方に支えられた葬送習俗は、全国の津々浦々の農山漁村に例を見ることができます。
又、古代以来、死に対して喪に服する場合が多いです。
盆と祖霊
盆が、日本において、庶民の生活の中で生かされたのは中世以降からです。
山から祖霊を迎えるのは盆の時ばかりではない。
盆の時には、日夜望見する山より死者の霊を迎えようとするのです。
したがって、盆には仏さまが来ておられるので留守にするわけにはいかない。
仏さまにお茶を差し上げなければならないし、色々接待をしなければならない。
だから家を留守にするわけにはいかないと考えるのです。
こうした考えは、祖霊の加護への感謝と、死者へのまつりを大切にするという意識に支えられているのです。
盂蘭盆会が祖霊祭としての意味を持ち、民間における固有の祖霊信仰と結合をした葬式仏教の形をしめすものといえます。
それは戦国期において行われたと考えられ、庶民社会への定着は徳川中期と考えられます。

火葬の広がり

簡易な土葬は次第に姿を消してゆくとともに、火葬は仏教との結びつきを強めつつ、上層階級以外にも徐々に広まっていきました。
十世紀の貴賤を問わず念仏を説いた天台僧の空也は、原野に放置された庶民の遺体を集めて火葬し供養を行っています。
鎌倉時代の開祖である一遍の時宗は、京都で火葬場を運営するようになっていました。
又、中世には火葬場での天下も含めて、葬送の実務を僧侶が基本的に請け負うようになったようですが、特に火葬や埋葬、墓所の管理にあたった下級僧侶は「三昧聖」と呼ばれていました。
「三昧」とは、本来は修行した僧侶が達する禅定の境地のことです。
「法華経」に基ずく瞑想法を法華三昧といい、これを修するための道場を法華三昧堂と呼んだのです。
法華三昧は、滅罪の功徳があるとされましたが、それが死霊の鎮めの意味にもとられたのか、平安時代中期以降になると貴族たちは墓所に法華三昧堂を建立するようになり、法華三昧堂の住僧は三昧僧と呼ばれました。
この風習が民間にも次第に広まったため、「三昧」といえば墓所や火葬場の事も指すようになり、墓所に住んで葬送に従事する下級僧侶は三昧聖と呼ばれるようになったと考えられます。
平安中期に比叡山横川で天台僧源信が中心となって結成された極楽往生をめざす念仏団体「二十五三昧会」に由来するという説もあります。
二十五三昧会は、往生のための臨終作法だけでなく、メンバーが死んだ場合の遺体の葬送や墓所についても細かく規定していて、葬送互助のモデルになったとも言われています。
三昧聖には、民間布教や社会事業に尽くした奈良時代の僧・行基や、その弟子たちが既に奈良時代に民衆に火葬を行ったとする説もあります。
こうした仏教者の活躍によって、火葬が火の力と念仏の功徳によって死者の霊を鎮め、穢れた死体を白骨として浄化し聖化する儀礼として広くとらえられるようになりました。
遺体を火によって破壊し、短時間で骨だけにしてしまう火葬は、人間の死を確定してしまうことであり、味方によっては土葬よりも残虐な葬法です。
土葬に慣れ親しんでいた社会で火葬が広く受容されるには、何らかの強力な意義付けが必要であったことでありましょう。
その意義付けを仏教が担ったと思慮されます。

江戸時代には庶民にも火葬が広がる

江戸時代までは土葬が主流をなしていましたが、すでに江戸時代には江戸・大坂などの大都市ではかなり普及していたようです。
大坂の周辺には、火葬場を中心とする墓地が七か所点在していました。
当時の資料によりますと、七か所の一つである道頓堀墓所では、多いときに年間一万体以上、少ない年でも五千体以上の遺体が葬られ、うち一割弱が土葬されたといいます。
ですから、九割は火葬されたということになります。
江戸にも、小塚原に幕府の許可を得て開かれたのに始まって、千駄ケ谷、桐ケ谷、渋谷、炮録新田に火葬場がもうけられ、この五か所は「江戸の五三昧」と呼ばれました。
小塚原の場合は、一町四方ほどの範囲に二十の寺院が並び、火葬寺と呼ばれたことから各宗派の寺院で火葬が行われました。
江戸・大坂に火葬が普及した要因として、人口が密集し土地の狭い都市には、土葬よりも遺体を効率的に処理できる火葬が適していたという点と、仏教葬としての火葬のほうが故人の供養になるという宗教的意義が民衆にも浸透していたと推定できます。
半面、儒教・儒学が隆盛した江戸時代には、火葬の普及を思想・信条的な立場から批判する人々もいました。
儒者の安井真祐は、貞享2年(1685)に「非火葬論」を著し、父母の屍を火葬することはその遺体を粗雑に扱うことであり、孝心に背くことであると論じました。
祖先祭祀を重んじる儒教では、死体といえども親の体を焼くことは不孝と考えられ遺体は、棺のまま土饅頭に収める方式の土葬が理想とされていたのです。
そうした立場から近世の儒者たちは、火葬が孝心を否定する仏教の野蛮な葬法として批判したのです。

明治政府は火葬を野蛮として一時禁止

江戸から明治維新の転換期に火葬は一時禁止されたことがありました。
明治6年(1873)7月、明治政府は突然火葬禁止令を出したのです。
この法は、遺体を焼くことによって生じる煙と臭いが不潔であり、人体に悪影響を及ぼすと考えた警察の統括機関が、司法省に火葬設置場所について意見を求めたことがきっかけとなっていますが、警察の統括機関の伺いに対して政府側は「火葬は釈迦の教法に由来し野蛮で残虐なもの」と断じて早々に火葬禁止を決定したのです。
神仏分離・廃仏希釈をへて、神道国教科政策が強引に進められるなか、仏教弾圧のあおりを受けて、火葬に代わって土葬が国家的に推奨されることとなりました。
しかし、この火葬禁止令はわずか二年足らずの明治8年には解除されています。
土葬は火葬に比べて埋葬地を広くとるため、たちまち墓地不足に陥ったからです。
それと欧米において火葬の普及がはかられていたことも関係しています。
こうして火葬は政府公認になりました。
明治期にはコレラ・チフスなどの伝染病が流行したのですが、伝染病で死亡した遺体は、火葬が推奨され、衛生上の観点からも火葬が有用と評価されるようになったのです。
現在のように公営の火葬場が整備されるまでは、戦後においても地方においては、火葬は墓地の片隅や村はずれで野天で行われることが珍しくなく「野焼き」などと呼ばれました。
この火葬は、筵がかけられた棺や藁や薪で焼くもので、最初に点火するのは喪主や身内の役割で、親族や村人の協力なくしては出来ないものでした。
火葬は、歴史的には仏教との関りで普及してきましたが、もはや現代では遺体の処理方法として認知され特段の宗教性を見出すことは難しくなってきております。