葬儀と仏教・僧侶の読経

葬儀とは、人の死を弔うための儀式です。葬儀は、宗教儀礼によって行われます。
以前では葬儀(式)と告別式は区別して行われていました。
告別式とは、告別式に参列した人たちが、焼香や献花をもって死者に対してお別れをする儀式のことをいいます。
最近では、葬儀(式)と告別式が一緒になって行われています。
葬儀に於いて僧侶の読経
日本人は古来より葬儀に於いては必ず、仏式言い換えれば僧侶の読経によってお葬式を執り行ってきました。
仏教はお釈迦さまが説かれたものです。
日本においては、葬儀と仏教は切り離せない関係です。
日本人は仏教を重んじ、葬儀においては仏教での葬儀式が殆ど行われるのが普通となっています。

葬儀・日本の仏教の最初

日本の仏教の最初
日本に仏教が伝えられたのは欽明天皇の時代です。
百済の聖明王が、釈迦仏金銅像と経典・仏具などを朝廷に奉献しました。これが仏教が伝えられたはじめです。
渡来人からの仏教伝来と葬儀の始まり
江戸時代の国学者の著書の中に、日本に葬儀・葬式に宗教が関与した記述がある。
その宗教というのが仏教である。
仏教は、はじめから葬式・葬祭にのみ関与する宗教であったわけではない。
葬儀とは、死者の霊を墓に納める宗教儀礼をいう。
人が死んでその霊魂が永久に安住する墓に納める方法は時代とともに変遷してきた。
葬のあり方が時代とともに、葬儀は葬祭場で行い、荼毘は火葬場で行うように変わってきた。
その移り変わりとともに、神官、僧侶、牧師が葬儀にかかわってきた。
仏教と葬儀(火葬)
仏教が伝わったのは552年の欽明天皇の時代である。
大唐漢人の鞍部村主司馬達等が大和の高市郡坂田原に草堂を建て仏像を安置した。
この時、仏教と深い関係を持つ火葬が行われていたことがかまど塚に認められます。

葬儀の始まり(歴史)

葬儀の始まりと仏教の関り

葬儀の始まり
葬儀とは、死者の霊を墓に納める宗教儀礼をいい、人の死を弔うための儀式です。
墓に納める方法は時代とともに変遷してきた。
葬る方法は土葬、火葬、水葬など色々な方法がある。
葬るあり方が、時代とともに変わり葬儀は葬儀場で行い、荼毘は火葬場で行うようになってきて、その間に神官、僧侶、牧師らが関与するようにもなってきました。
一昔前までは、葬儀(式)と告別式は区別して行われていました。
告別式とは、告別式に参列した人たちが、焼香や献花をもって死者に対してお別れをする儀式のことをいいます。
最近では、葬儀(式)と告別式が一緒になって行われています。
人の死によって、葬儀と仏教が結びついてきました。
葬儀は必要(葬式無用論)?
葬儀は、死者の霊を弔うことが目的である。
只、現代は形がい化してきて、生きている者の見栄とか慰めとか或は慣習的に感動が伴うことなく行われている感がぬぐえないところがある。そして、かなりの出費が伴っている。
葬儀に宗教の関与
江戸時代の国学者の著書の中に、日本に葬儀・葬式に宗教が関与した記述がある。その宗教というのが仏教である。
仏教としても、はじめから葬式・葬祭にのみ関与する宗教であったわけではない。
形骸化したのは近世になってからだと考えられる。
寺壇制が確立され、寺院側の檀家支配の統制下と、寺院運営経費の面から様々な葬儀、法要の形式を確立するため必要性に迫られたためだと考えられる。
であるから、祭主や喪主などの遺族の側からの意思は含まれていない。
僧侶は、仏教に専念して勤行に努めるよりも、収入面に振り回されて、自らの品格を高めることは二の次となり、次第に死者に引導を渡すことができない僧侶が増えたのである。
縄文・弥生時代
縄文・弥生時代の墳墓から、埋葬法の変遷が分かる。
その墓は貝塚、洞窟、砂丘の中に多く見いだされる。
人骨は伸展葬、屈葬、座位などのものもみられる。
死者を葬るには、土中に埋める方法が多く用いられた。
土中から発見される死者は、多くは折り曲げられたり石を抱かされたりして、この世に蘇らないように圧迫されている。
縄文時代から弥生時代になるにしたがって、棺に納められるようになる。
これは、死者の霊を恐れることと、死者の霊を大切にして祖霊として子孫を守ってほしいという願いが込められたものと考えられる。
日本人は、死者の霊を恐れることから、祖霊に対して最も恐るべき存在であると考えていた。
半面、霊を最も親しむべき尊敬に価するものと考えており、このため霊をその時々においてまっつたのである。
人が喜ぶときは、神も喜ぶものと考えて招待の時期を定期的に決め、霊をまっつたのである。
その際には、供養をすると同時に魔除けの呪術を怠らぬように努めていた。
これは祖先にささげたものが、他の悪霊によって荒らされぬようにと考えたためだといわれているが、実際は、祖霊に対しては、親愛感とともに、一種の恐怖感を持っていたのである。
縄文時代は墓標は立てなかったようであるが、弥生時代は死者を追想するようになって墓標を立てるようになったようである。
火葬
火葬の始まり
火葬は、インドに端を発し中国を経て我が国に伝えられた。
それは仏教の伝来よりやや遅れ僧道昭によってなされた。
「続日本紀」「万葉集」の中に火葬がされたという内容の文があり6世紀末から7世紀ごろには、人が亡くなった場合は火葬の風習があったともいわれている。
持統、文武、元明、元正天皇は、火葬をもって葬られたという記録もみられる。
これは、仏教的葬法であるとみることが出来る。
カマド塚には、火葬人骨があり、火葬を行ったことが裏付けられている。
火葬の浸透
火葬はインドから中国へ伝わっていった。
後に新羅に伝わり火葬が流行し始めた。
日本においても奈良時代に全国的に普及浸透していった。又、上流階級の人々をはじめ有位無位に関わらず広範囲に渡っている。
骨壺
遺骨の収納方法は骨壺と言われる鞠型の容器に納めて埋葬されている。
骨壺には、陶製のものが多く、銅製、金銅製のものがこれに続いている。しかし、当時は土葬墳も少なくない。
神信仰の減少
日本は、誕生以来農業国であった。
国是は農本主義的であり、宗教儀礼も農耕儀礼を基盤にしていた。
只、戦後の日本は高度経済政策によって農業国家としての基本構造を変えさせ、かって日本の持っていた国家構造の基盤にさえ大きな動揺をもたらした。
日本の持っていた祖霊が、農業生活を守ってくれるという意識、そのことを基盤とする日本人の神信仰を変化させていった。
家には神棚や仏壇が少なくなり、墓と神棚・仏壇の結びつきは断たれ、神社や寺との結びつきも断絶していき、現代は核家族が主流となっている。
葬の流れ
葬式は、埋葬法の変遷によって歴史的流れを知ることができます。
今まで発見されてきた人骨によって、葬は伸展葬であったり、ある時は屈葬など葬の歴史を窺がえることができる。
縄文・弥生時代
縄文・弥生時代には、死者を山に葬るという観念は成立していなかったと思われる。
縄文・弥生時代のその後に農業が盛んとなって山の神と田の神が交代するなどと考えられるようになって、山に葬るという考え方が生まれてきた。
死者を葬るには、土中に葬る方法が多く用いられたと考えられる。
土中から発見される死者は多くは折り曲げられたり、石を抱かせたりして、この世によみがえりくいように圧迫されている。
縄文から弥生時代になるにしたがい、次第に棺に納められるようになるが、これは死者の霊を恐れるとともに、死者の霊を大切にして、祖霊として子孫を守ってほしいという願いを込めたものと考えられています。
所によっては、屍を土中もしくは地上において、白骨化させてから棺に納めるという二重葬が行われています。
縄文人は、墓標を立てなかったらしいが、弥生人は死者を追想するようになり、墓標を立てるようになりました。
弥生時代には、既に共同墓地が作られていたと考えられます。
火葬の起源
天武天皇陵が土葬で、持統天皇陵が火葬だとされています。次いで、文武・元明・元正の天皇は、火葬で葬られたようです。
これは、明らかに仏教的葬法であるとみることができます。養老令の喪令にも火葬の条が記載されております。
したがって、火葬は次第に貴族にも普及浸透していったと考えられます。
しかし、直ちに民間にも普及していったとはいいがたいと思います。
火葬の変遷
仏教伝来は、葬制に大きな変化をもたらした。
火葬制の採用がこれで、700年に僧道昭が初めて火葬された。貴族から次第に一般化されたが、民間では土葬が依然として多かった。
しかし、僧が死者の冥福を祈り、葬列に参加することは、奈良時代からようやく行われるようになった。
火葬は、奈良時代に全国的に普及浸透したことは否定できないのです。
葬儀と仏教の当初
葬儀と民族宗教
当初の仏教は、民俗信仰の基盤の上に立とうとしていた。
これは、飛鳥時代寺院の氏寺的性格といえると思う。
墓や陵が山にあったり、山のような形のものを造っているところにも民族宗教を基盤としていたことがうかがえる。
寺そのものが山中・山上に建てられるにいたったとき、それまでの在家仏教が異なった形の仏教、専業化した仏教へ移行していった原因の一つではなかろうか。
民は、祖霊は山にいると考えていたと思われる。
これが霊山信仰のもとをなしていったのである。
祖霊が山にあると考えていた。
死に対する儀礼とか、埋葬は貴族と庶民とでは大きな違いがあった。
庶民にとっては死体を埋葬する墓地とその霊を祀る祭地とが別々になっている墓制を持つ地域がかなり広がっている。
死体を埋める墓地は、部落を離れたはるか遠い山中にあった。
はじめ仏教は葬式法要とは関係を持たなかった。
これが民間と強い関係を持っようになったのは、平安時代末以降である。
仏教のはじめは、土葬方式を改めて火葬を行うくらいの機能しか果たさなかったのである。
当時の火葬されていたのは、七世紀後半には天皇、皇族、貴族の行われていたのではないかと考えられ、民間では、まだまだ山中他界観念に基ずく土葬が多かったと考えられる。
葬儀と仏教
仏教とは
仏教は、自分の望みを叶えてもらうようお願いする宗教ではありません。
仏教とは、仏の教えで「仏」とは仏陀という言葉を省略したもので「悟った者」「真実に目覚めた者」のことです。
ですから、仏教とは、「悟った者・真実に目覚めた者の教え」であると言えます。
「真実に目覚めた者」とは、釈尊のことです。
仏教とは「釈尊の教え」ということです。
只、仏教は釈尊が創り出したものではなく、釈尊が真実に目覚めそれを言葉として説いたものなのです。
又、仏の教えを聞いた者が真実に目覚め仏に成るわけですから、仏教とは「仏に成る教え」であると言えます。
釈尊の誕生
釈尊は、約二千五百年前の四月八日、インドの北(現在のネパール)ルンビニーの花園で誕生されました。
そのころ、インドの北方に、釈迦族と呼ばれる種族が、カピラ城を中心に小さな国を作っていました。
釈迦の父は、カピラ城主スッドーダナ王、母は、マーヤー夫人でした。
マーヤー夫人は、出産のため里帰りの途中、ルンビニーの花園で休息をとりました。
その時、産気づいて釈尊を出産されたと伝えられております。
現在、四月八日には釈尊の誕生を祝う「花まつり」が全国各地で取り行われています。
釈尊は、性はゴータマ、名は、シッダッタと言います。
一般的には、「お釈迦さま」とか「釈尊」と呼んでいます。
釈尊は誕生すると直ぐに七歩歩いて、右手で天を指し左手で地を指して「天井天下、唯我独尊」(天にも地にもただ我独り尊し)と宣言されたと伝えられています。
そして、その時、天は感動し、甘露の雨を降らせたといいます。
「七歩歩いた」ということは、迷いの世界である六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を超えたということを表します。
「天上天下、唯我独尊」という宣言は、
「私の命は、天にも地にも、この世の中にたった一つしかない、かけがえのない命である。しかも、この命はその中にあらゆるものが収まっているような無限の意味内容を持っている。だからこそ私の命は尊い」という意味なのです。
釈尊誕生の時、「甘露の雨が降った」という伝説があります。
これは釈尊の誕生を人間だけではなく、動物や植物も含め大自然・大宇宙が喜んだということを表しています。
釈尊の誕生を祝う「花まつり」に誕生仏に甘茶を灌いでお祝いするのは、この伝説によります。
だから、「花まつり」のことを「灌仏会」ともいいます。
「六道」とは衆生が、それぞれの行為によって趣き往く迷いの世界のことで、六趣ともいいます。
①地獄―苦しみの極まった世界。
②餓鬼―飢え渇きに苦しんでいる世界。
③畜生―恥を知らない世界。
➃修羅―争いの世界。
➄人間―人
➅天上―喜びの世界
(煩悩を離れていないので、やがて崩れる。これも迷いの世界。)
これらの世界は、空間として存在するのではなく、迷いの心が創り出す世界です。
釈尊の母マーヤー夫人は、白い像が胎内に入った夢を見た後、釈尊を懐妊したという伝説があります。
これは釈尊の偉大さを表そうとしたものです。
又、なぜ象かというと、インド人は像を好み大切にしているからと思います。
釈尊の若い時
釈尊の母マーヤー夫人は、釈尊出産後七日目に亡くなられました。
その後,釈尊は母の妹であるマハーパジャパーティーに養育されました。
当時、インドの上流階級では、7,8歳になるとバラモンの学者のところでバェーダなどの学問を学ぶことが、一般の慣習となっていました。
釈尊は、小さい頃から感受性が強く、物事を深く考える性格だったようです。
釈尊が10歳の農耕祭で、多くの牛が犂を付けて田を耕すのを眺めていた時、鋤起された土の中から小さな虫が掘り出されました。
それを見つけた小鳥がその虫をついばみ去りました。
さらに、その小鳥を大きな鳥が襲いました。
釈尊はこの弱肉強食の悲しい現実を見て「なぜ生き物は殺し合わなければならないだろう」と一人想いにふけったのでした。
葬儀と関係の深い仏教の推移
葬儀と関係の深い仏教は、時代と共に推移し現代の仏教が構成されました。
葬儀と仏教の推移(歴史)
火葬の始まり
日本に仏教が伝えられたのは欽明天皇の時代で百済の聖明王が、釈迦仏金銅像をはじめ経典・仏具などを朝廷に奉献した。
これが仏教が公に伝えられた始めで、「仏教の公伝」といいます。
これ以前に、中国や朝鮮からの渡来人によって仏教は伝えられていた。
この時期、カマド塚から火葬の風習が認められる。
わが国、初の寺院建立
敏達天皇の頃、(584)蘇我馬子は、飛鳥の桜井の家を寺院とした。
又、豊浦の大野丘の北に塔を起して仏舎利を祀った。
出家
仏舎利などを供養礼拝するために、司馬達等の娘、善信尼など三尼が出家した。
飛鳥の桜井の家は、日本最初の尼寺、豊浦寺に発展した。
善信尼らは、崇峻天皇元年(588)、百済に留学して戒律を学び、帰国後は、豊浦寺に住まい多くの尼僧を出家させた。
仏教へ帰依
587年、用明天皇は、天皇として初めて仏教に帰依することを表明された。
わが国最初の寺院(飛鳥寺)の建立
蘇我馬子は、仏教の興隆を推進するために、百済から送られてきた技術者を使って、我が国最初の本格的な寺院-法興寺(飛鳥寺)を大和飛鳥に建立した。
氏族仏教の形成
594年、推古天皇が発布した「三宝興隆の詔」によって、仏教が国家的に認められることとなった。
この「三宝興隆の詔」によって、寺院46・僧816人・尼569人となり、仏教は各氏寺を中心に急速に発展し、氏族仏教が形成された。
聖徳太子-仏教を採用
604年、聖徳太子は「十七条憲法」を制定された。
聖徳太子は、政治と仏教をとの関係を深く考察し、仏教によって民衆の人格の平等と尊厳を確立して、平和な社会を建設すべきことを説かれた。
聖徳太子が建立の寺院
聖徳太子が建立した寺院は、四天王寺・法隆寺・中宮寺・橘寺・峰丘寺・池後寺・葛木寺の七カ寺と伝えられている。
律令仏教
氏族仏教から国家仏教へ
大化の改新によって、律令制度がしかれるとともに、仏教に対しても「仏教興隆の詔」によって、十師などの僧官を設けて、国家的な立場から仏教を興隆し、寺院や僧尼を統括した。
これによって、各氏寺とその僧尼は国家のもとに組織され、氏族仏教から国家仏教へ展開していくこととなった。
鎮護国家の仏教
律令国家の支柱としての鎮護国家の仏教は、官大寺を中心に全国的な規模で展開する基盤が築かれた。
中央をはじめ各地で建立された多くの寺院は、天皇・国家の安寧を祈願するための公的な機関であり、僧尼はこれらの寺院に専住して、鎮護国家のために奉仕すべく位置づけられた。
律令仏教の展開
702年、仏教教団統制法である「僧尼令」が制定された。
この僧尼令は、釈尊が定められた戒律によって、自律的に運営される仏教教団の在り方を無視するものであった。
又、僧尼の宗教活動を寺院内に限定して、民衆の救済を求めて仏教を伝道するという大乗菩薩思想の実践は国家から禁止された。
このように僧尼令は、非仏教的立場から、僧尼を律令国家の枠の中に位置付けした律令的仏教信仰で、律令仏教といわれる。
行基と律令仏教
律令仏教の確立によって、仏教教団は国家体制の中に組み込まれた。
しかし、律令仏教を批判し、仏教実践の正しいあり方を身をもって実践した人々が現れた。
その一人が行基で反律令仏教の立場を示した。
奈良仏教
奈良時代の仏教は学問的に発達し、南都六宗が成立した。
六宗とは、三論・成実・法相・俱舎・律・華厳の諸宗をいうが、後世の宗派のように寺院中心の信仰集団ではなく、特定の教学を専攻する僧の集団であった。
奈良時代の仏教は、国家の保護によって一大繁栄を遂げた。
平安仏教
最澄と空海は、平安京を中心に天台・真言の二宗を開創して、大乗仏教の立場を明らかにして平安仏教を確立した。
平安仏教は、天台・真言など諸宗は貴族社会の現実的欲求に対応する呪術的な祈祷仏教へ展開していった。
このように、平安仏教は密教化され祈祷宗教化・民族宗教化へと発展していった。
中世仏教
平安時代から鎌倉時代にかけて貴族が支配する政治体制が崩壊し、新しく武士が政権を担う体制の時期である。
この時代の仏教は、民主をも救済する仏教こそ釈尊の真実の教えであり、大乗仏教の根本的立場であるとした。
このことが中世仏教である。
古代の仏教は、律令仏教・貴族仏教といわれるように国家権力と一体化して、国家を背景に民衆を支配する仏教であった。
かくして、中世仏教によって、はじめて国家から離脱した人格中心の仏教が確立した。
浄土真宗(葬儀と浄土真宗)
仏教の1つの宗派である浄土真宗は、念仏集団が関東各地で形成され、次第に組織化されて京都をはじめ近畿地方で発展していった。
仏教は、その時々の権力者と結びつき、或いは利用し利用されながら時代時代によって変貌を遂げていった。
平安時代の貴族の葬儀は、仏教寺院で行い僧侶が念仏し仏教の影響を受けていた。
鎌倉時代には、一般庶民にも仏教が広がり仏式葬儀が行われていた。
浄土真宗・開宗と宗祖
1224年、親鸞聖人52歳の時、聖人は陸奥の国稲田で「顕浄土真実教行証文類」6巻を執筆されたといわれています。
この教行信証は浄土真宗の教えの根本が示されており、この年をもって浄土真宗が開宗されたとして、親鸞聖人を宗祖として仰ぐようになりました。
宗祖・親鸞聖人の生涯
誕生
1173年5月21日京都の日野に誕生されました。
幼名は、松若丸と言われています。
父は藤原一門の日野有範、母は吉光女(きっこうにょ)と言われています。
当時は平安時代の末期で、貴族社会が揺らぎ武家階層の台頭で混沌とした時代でした。
父は源氏と平家を中心とした政争の渦に巻き込まれて隠棲し、母とは聖人が8歳の時に死別されています。
幼くして愛別離苦を味わわれているのです。
聖人誕生の地
聖人誕生の地は、京都市伏見区日野の法界寺境内つまり日野誕生院辺りであります。
聖人の家系
聖人が生まれた日野家は、藤原氏末流の下級公家の家系です。
聖人の父有範は、五位の位で朝廷の下級官吏として後白河上皇の皇太后のもとに仕えていました。
後に出家します。
母は、源義家の嫡子義親の娘で「吉光女」と言われています。
聖人には、尋有・兼有・有意・行兼の4名の弟がいたといわれています。
得度
1181年春、聖人は9歳の時伯父範綱の導きによって、慈円僧正を戒師として青蓮院で得度し天台宗の僧侶となった。
慈円は九条家の兼実の弟にあたり、後に天台座主についた僧侶であった。
聖人の名
聖人は、幼名を松若麿或いは鶴光麿と称したと伝えられております。
得度してからは、範宴という僧名と称して比叡山にのぼりました。
聖人家族の出家
聖人の家族である父と弟4人、全てが出家しています。
父、有範は宮仕え後に三室戸寺の僧侶となり、弟の尋有・有意は延暦寺の僧侶に、兼有・行兼は聖護院の僧侶となっています。
このことは、平安末期、鎌倉初期の時代は古代より中世への転換期であり、公家勢力が衰退し武家勢力が台頭してきた時で、本来は朝廷の官吏であったにも関わらず、日野家が存続しずらかった時だと思われます。
横川においての堂僧
聖人は、20年間比叡山において修学されました。
とくに、聖人は比叡山三塔のうち慈円が管領をしていた横川において修学し、その身分は常行堂で不断念仏を行う堂僧であったと思われます。
聖人の修学
聖人が修学していた横川浄土教は、天台宗の開祖最澄の大乗仏教精神を末法時代において、如何に具現できるかという課題の中で成立したものであった。
聖人は、持戒修学によって悟りを開くことが不可能になった末法において、一切衆生とともに救われていく道が当時の国家仏教・寺院仏教・出家仏教としての天台教団の中に見出せるかを、比叡山を下りる前に考えていたと思慮される。
「ひじり」
聖人が29歳の頃、山を下り「ひじり」となって民衆伝道を行う僧侶たちがおり、その中に専修念仏を説く法然上人もおられた。
当時、聖人はこの「ひじり」としての生き方に魅せられたと思われる。
六角堂へ
聖人が29歳の時、「ひじり」としての生き方に共鳴したと思われる。聖人は、六角堂に百日間参籠された。
聖徳太子への崇拝
聖人が、聖徳太子を崇拝したのは、当時の仏教界において聖徳太子を日本仏教の始祖として仰ぐ信仰の影響によるもの、そして聖徳太子が在家仏教の実践者であることからです。
比叡山を離れる
聖人は六角道参籠の後、「専修念仏」は称名の一行によって救われることを説く在家仏教であることから、聖人は法然のもとに百日間通い続けて、法然の専修念仏の教えを確認したうえで比叡山を離れ法然門下に帰入した。
聖人は、「承元の法難」で流罪に処せられる5~6年間を法然上人のもとで浄土教を学ぶこととなった。
法然の教え
法然の「専修念仏」の教えは、聖道門を捨てて浄土門を選んで、他力念仏を学ぶものでありました。
又、「称名」は救いのための条件ではなく、阿弥陀仏から回向される他力の救いを象徴化したものであり、無条件の救いを提示したものであった。
このように法然の現実生活の中では、「悪人往生」の道として説かれています。
すなわち、自己の愚悪なる本性を凝視することが真実の救いへの道であり、徹底した自己否定を通して念仏の世界が開けてくるということです。
自己を賢者に仕立てることは困難ですが、自己の愚悪性に目覚めることはあらゆる人々に開かれた道であります。
ここに一切衆生とともに救われる大乗仏教の道が具現されているといえるものです。
この「専修念仏の教えは、法然上人の主著「選択本願念仏集」に示されております。
「選択本願念仏集」の書写
聖人は法然上人の門下で勉学に励み、1205年に「選択本願念仏集」の書写を許された。
法然は、専修念仏を曲解されることを恐れ人には見せなかったが、聖人は門下となって4年後に書写を許された。
このように聖人が勉学に励んだことは、聖人の筆とされる「観無量寿経註」「阿弥陀経註」にうかがい知ることが出来る。
専修念仏批判
東山吉水で法然は専修念仏を説いていたが、年ごとに信者が増えていった。
それに伴って、旧仏教教団の僧達は脅威を感じて批判を行っていった。
1204年、比叡山の衆徒が天台座主に対して専修念仏の停止を訴えた。
朝廷は、この意向を受けて直ちに法然教団に戒告を発した。
これに対し、法然教団は朝廷へ「七箇条起請文」を提出した。
この文は、法然とその門弟百数十人の連署があるが、この中に僧綽空という名の聖人の署名がある。
承元の法難
1207年、朝廷は法然門下に対する弾圧を開始した。
これは聖道門諸宗や朝廷が、専修念仏が自分たちにとって不都合であることイコール悪であると決めつけ弾圧を行ったものである。
この時、処罰を受けた者は、死罪4名、流罪6名であった。
法然は土佐に、聖人は越後国国府(現在、新潟県直江津市)へ流罪となった。
聖人の結婚
聖人は流罪地の越後国国府の土豪三善爲教の娘・恵信尼と結婚した。
恵信尼との間に、小黒女房・善鸞・明信・有房・高野禅尼・覚信尼の三男三女を授かった。
恵信尼は、地方女性としては教養の高い人物であったようである。
聖人の東国伝道
1211年、聖人は39歳の時、流罪が許された。
1214年、家族とともに関東へ向かった。
聖人は、東国在住は約く20年に及んだ。
聖人の晩年には、東国一円に数万名の門徒が存在したと思われる。
有力な門徒組織は、高田門徒・鹿島門徒・河和田門徒・布川門徒・横曽根門徒・佐島門徒・島門徒・浅香門徒等がある。
親鸞聖人の著述
聖人の著述として、「顕浄土真実教行証文類」(教行信証)があります。
そして、三帖和讃といわれる阿弥陀如来のお徳を讃えた「浄土和讃」、お念仏を伝えて下さった七人の高僧を讃えた「高僧和讃」、阿弥陀如来のお救いのたのもしさを讃えた「正像末和讃」、3つの和讃です。
聖人の結婚に至る経緯
親鸞聖人が31歳(1203年)の時、六角堂の救世観音の夢をご覧になり、
「行者宿報設女犯」「我成玉女身被犯」「一生之間能荘厳」「臨終引導生極楽」
(念仏の修行者のあなたが、宿縁にあって結婚されるなら、私(救世観音)が女性の身になって妻となりましょう、一生の間能くあなたにお仕えし、臨終には極楽に生まれるように引導いたしましょう)
というお告げがあった言われています。
「覚如上人の御伝鈔より」
又、法然聖人の「聖の生活でお念仏が称えられなければ、妻帯をしてお念仏を申せ」という指示が結婚への決断を促したと思われます。
近世仏教
江戸幕府の政治は、法度政治で近世封建社会を確立した。
仏教教団に対しても寺院法度によって統制し、封建社会の機構に組み入れていった。
その機構は、それ以前の織田信長の全国を統一するための天台宗や真宗など大教団の権力を武力によって排除し、その後の豊臣秀吉は、検地・刀狩を行って仏教教団の持つ寺領や武力を没収などして、中世的な寺院権力を自分たちの権力の中に組み入れていった。
江戸幕府の法度による仏教統制は、織田信長・豊臣秀吉の仏教政策の後を受けて完全に封建体制の中に組み込んでいったのが特徴である。
近世の葬式仏教・法要仏教
近世は、江戸幕府によって檀家制度が確立され、形式的な儀式のみを行う葬式仏教・法要仏教へと変質していった。